哲学研究者の功木マキオは普段どんな本を読んで、何を考えているのか?自身の研究テーマである足利学校改造論からプライベートまで。情熱を持って書かせてもらいます。
 
2015/01/29 14:24:00|その他
常識を信じろ!
気が付けば、あと2日で一月が終わってしまいます。あっという間の1ヶ月でした。今月を振り返
ると「ハム様」と「映像」のことを多く書いてきましたが、今日は久々に哲学ネタで行きたいと思
います。

哲学という思考方法は基本的にものごとを疑っていく方向で進化してきていますが、逆に何も疑
わない常識的な見方も一つの哲学理論となっています。

我々の外界の存在や真偽を認定することにおいて判断根拠を「観念」であるとした経験論学説を批
判して「常識(コモンセンス)」を打ち出した哲学者にトマス・リード(18世紀)がいます。

常識を認識論的な概念装置に使うということは、要するに我々が常識を形成する能力に着目して認
識を研究するということであります。一見すると拍子抜けするほど簡単なことを言っているようで
いて、さにあらずです。

「我々はものごとを見る際に無意識的に「常識」というフィルターを通して見てしまっている。し
かし認識論的な研究においては重要なのは、その「常識」を形成するメカニズムの方である。」


彼の主張を要約するとこうなりますが、彼の学説は現代の欧米の心理学界においては、現在の主流
派といえる機能主義心理学に多大な影響を与えたとして非常に評価が高くなっています。

彼の学説の持つ根本的な重要性または現代社会におけるアクチュアリティはインターネット時代に
おいて日に日に増しております。

取り分け映像や文化の受容の文脈においては決して見逃すことの出来ない哲学理論であります。

現代人はネットによる情報ビッグバンの時代に生きているといえますが、その中を生き抜く知恵を
主にネットから得てきている現状では取り分け重要な意味を持っています。

と言うのは、ネットの上の情報は当然、発信者の常識を下に形成され流されています。つまり情報
が流される以前の段階で発信者の価値判断が混入してしまっているからであります。

我々はネット上の情報の真偽を確かめるには、情報を発信している人の常識の形成メカニズムにま
で遡らなければ不可能になってきています。

そのような時代だからこトマス・リードの学説は不滅の輝きを放っているのです。

確かに彼の哲学は一見地味で、特に若い人たちには敬遠されがちですが、実は哲学史のみならず心
理学やメディア論の研究の中でも重要な源泉の一つになっています。

日本語で読める彼の文献には「心の哲学」というのがありますので、興味のある方は是非チェック
してみてください。

最後にタイトルにある「常識を信じろ!」とは闇雲に全ての情報を信じろという意味ではなくて、
常識の形成メカニズムまで遡れば全ては真であるという意味です。

それでは、See You Next Ariticle!


 







2015/01/28 9:51:29|その他
ウォークしてます
        毎日美しいほふく前進のためにウォーク(walk)してまーす。







2015/01/27 13:27:35|その他
WEBシネマとは何ぞや?
一昨日の記事を読んでいただいた方にはご心配かけましたが、うちのキンちゃんはその後元気を取
り戻し普段通りに生活をしています。しかし、またこれから寒くなる予報で来月2月は雪にも注意
しなくてはならないので全く気を抜けません。

功木にとっても一年の中でも鬼門となっている2月の過ごし方は、その後の活動にも影響してくる
のでとても重要です。他の月に比べて日数も少ないので、集中力を持続させて密度の濃い2月にし
たいと思っています。

さて先日の記事で書いたWEBシネマ・43についてですが、今日はこれについてもう少し詳しく
説明したいと思います。

WEBシネマとは要するにインターネット技術やデジタルの映像技術を使った新しい形式の映画の
形式であります。古典的な映画が映画館で観客を相手に映写されるのをベースに発想されているの
に対してWEBシネマの場合はPC、TV,タブレット、スマホなどのデジタル端末での視聴がメ
インに想定されていています。

内容的な面でいうと古典的な映画にはフィルムを切ったり繋いだりして編集したことによる物理的
な制限がありましたが、WEBシネマにおいてはデジタルの映像技術により全く自由な映像表現が
可能になり、「哲学」と「映像」の融合という未曾有な「シネマ」の可能性が出てきています。

我々の研究においては、そのWEBシネマを43(市民)の文化として創出できないかということ
を研究してまいりました。それこそが我々の考える「地方分権」であるという強い信念の下に研究
を積み重ねてきております。

しかし、他にも同じようなことを考えている人たちは沢山いるし、今回のWEBシネマ・43のど
こに革新性があるのか分からないと思っている方もおられるかもしれません。

この点に関しては、基本的には現在制作中の「UOAK−2」を見ていただいて納得していただく
しかないと思います。しかし今の時点で一つだけ申し上げられることは、我々は「映像」に「哲学
」を内在化させる独自の方法を開発してきました。その点をご覧下さいということだけです。

しかし思い返せば、功木が映画を研究を始めた頃は現在のように足利市が「映像」に関する論議の
最先端の地になるとは夢にも思っていませんでした。

ある人には「足利で映画の研究をやるのは自殺行為だ」とまで言われたことがあります。

その様な状況の中でも粘って研究を続けられたのは、やはり「足利学校」の存在が大きいと思いま
す。

足利市民には先人達から受け継いできた、学問や知に対する信仰心(学校様マインド)があって、
功木は今までの研究を通じてそのことを強く感じるようになってきました。

この学校様マインドがある限り足利市の未来は非常に明るいと思います。

それでは、See You Next Ariticle!







2015/01/25 16:35:23|その他
キンちゃん危うし
皆さん、こんにちは。今日功木家では朝から本当に大変なことが起きてしまいました。
今日の未明に我が家のキンちゃんが疑似冬眠状態になってしまったのです。

疑似冬眠とは人間で言えば、雪山で遭難したときに寒さの為に体温が下がってきて、眠りに落ちて
いくようなものです。別の言い方では低体温症とも呼ばれるらしいですが、その状態で長時間放置
されると絶命してしまうそうです。

昨日の夜10時頃にキンちゃんの様子を見たときには、何となく元気が無くて餌も残してあったの
で、心配はしていました。しかし部屋にはエアコンで暖房がしてあって、他のジャンガリアンたち
は元気だったので、そのまま様子を見ていたのです。

そして今日の朝6時頃、功木は起きてキンちゃんの様子を見に行きました。いつもならドアの開く
音を聞くと元気よく床材を積み上げた寝床から出てくるのに今日は床材の山がピクリとも動きませ
ん。

嫌な予感がして、もしや?と思いながら床材を掻き分けて、丸くなって寝ているキンちゃんの背中
を指で押してみました。

それでもキンちゃんは反応がありません。功木はことの重大さに気付き床材の中でお相撲さん座り
をしたままの状態で硬直しているキンちゃんを水槽から出して、軍手をはめた手で暖めてあげまし
た。

最初に発見した時点では「これは、もう死んでしまった。」と思い、キンちゃんが功木家に来てか
らのことが走馬灯のように功木の頭の中を駆け巡っていました。

「これはとんでも無いことをやってしまった。何でもっと注意してあげられなかったのだろう。ハ
ムニストとしては自分は失格だ!」と自責の念で胸が張り裂けそうになり、目から涙が溢れ出てき
ました。

しかし10分ぐらいの間、手でキンちゃんを抱っこして息を吹きかけたり「頑張れ、頑張れ!」と
声をかかているうちにキンちゃんのヒゲが微かに動き始めました。

「これはまだ希望が持てるかも」と思い、夢中で蘇生処置を続けていくと次には耳がぴくぴく動き
始め、やがて身体全体が震え始めました。

今まで硬直していた身体が柔らかくなってきて、とうとう最後には目が開き始めました。

この時のキンちゃんの寝ぼけ眼を功木は生涯忘れることはないでしょう。それほど感動的な瞬間で
ありました。

結局、蘇生処置を始めて30分ぐらいでいつもの元気な姿に戻ったキンちゃんでありましたが、発
見があと1時間遅れていたならばどうなったか分かりません。

功木家の他のジャンガリアンたちは同じ条件でも何ともないのに、キンちゃんはゴールデン系なの
でこうなってしまったのでしょう。今朝のことはハムニストとして猛省すべき一件であり、今後は
二度と同じ様なことを繰り返してはならないと肝に銘じました。

さらにジャンガリアンたちも含めて、もう一度ハム様たちの寒さ対策を見直さなくてはいけなくな
りました。やはり今年の冬はそれだけ寒さが厳しいということなのでしょう。

ハムニストの方でキンクマなどゴールデン系のハム様をお世話している方は特に要注意です。ハム
様たちは人間よりはるかに寒さに弱い動物です。そのことが今朝のいい教訓になりました。

人間界の我々も何とか頑張って寒い今年の冬を乗り切りましょう。

それでは、See You Next Ariticle!







2015/01/24 13:22:00|その他
哲学映画VS映画哲学
映画と哲学、それらを二項対立的に論じるのあまり良くないのですが、映像という中間項の意味を
考える場合には、それはどうしても避けられません。

歴史的に見て映画と哲学は共に映像を扱ってきましたので、それぞれの立場で映像の研究はなされ
てきました。

ただ両者の違いは主に研究成果の表現スタイルにあると思われます。映画は具体的な作品として成
果を具現化して映像化しなければならないし、一方哲学の方は主に言葉で論文などの成果にまとめ
上げてアカデミックな世界で流布するようにしなければなりません。

従来はこのように映画と哲学は共に映像を扱いながら棲み分けをしながらやってきましたのですが
、近年インターネットやデジタル・メディアの普及により両者のあり様は大幅に変化してきていま
す。

元来、映画にしても写真にしても原理的にはアナログ・メディアでしたがデジタル時代になり数値
化されて処理されるようになりました。このことは我々の文化の歴史において深層心理学的に考て
非常に重要な転換点になっています。

その影響は映画と哲学の関係にも及んでいて、それぞれの棲み分けがもはや不可能な状態にまでに
なっています。

と言いますのは、棲み分けを可能にしていた条件が映像と言葉の各々の独立性にあったのですが、
ハイパーテキストの普及によりそれが崩れてきてしまい、映像と言葉との境界が曖昧ないなってき
たからであります。

この様な状況下では映画と哲学を別個に扱って研究することは、あまり意味がなくなってきていま
す。どちらの立場においても、やはり結果を出していかなくてはならないことは同じであるからで
あります。

なので我々はこれからの時代は「哲学映画VS映画哲学」の時代になるであろうと予想しています


映画は歴史的に見れば「映像」プラス「哲学」として発展してきました。ここでいう哲学はどのよ
うに世界を見るか?という比喩的な意味ですが、その上に18世紀の機械文明が融合して進化して
きたのです。

我々は現在のデジタルな状況に鑑みてもう一度「映画」を発明する必要に迫られていると言えるで
しょう。

恐らく、これからはしばらくは様々な映画形式が登場して映画のポストモダン的な状況が続くと思
われますが、それは19世紀末の頃の実験映画の時代の再来とも言えるでしょう。

我々はこのカオス(混沌)的な状況になればなるほど足利学校再建の意義は増してくると思ってい
ます。足利学校では戦国時代には時代の要請に従って兵法や占いを教えていたという歴史がありま
す。

なので現代においても、再建された暁にはそこで映画や映像を教えるという可能性もありうるので
はないかと思います。

今までの「歴史と文化のまち」と「映像のまち」との整合性を考えた時に、それが一つの「落とし
どころ」なのではと思いますが、読者の皆さんはどう思われますか?

それでは、See You Next Article!