哲学研究者の功木マキオは普段どんな本を読んで、何を考えているのか?自身の研究テーマである足利学校改造論からプライベートまで。情熱を持って書かせてもらいます。
 
2015/02/11 17:55:27|その他
いやされて足利
今日は我が功木家の看板娘ことジャンガリアン・ハムスターのオジョーのことを書きます。オジョ
ーは数々の伝説的なエピソードに彩られたハム様でありますが、今回はオジョーの個性的な歩き方
について書いてみたいと思います。

今まで沢山のハム様を見てきた功木の目から見てもオジョーの歩き方は少し独特な気がします。胴
体の部分をあまり動かさなくて上下動の少ないバタバタとした歩き方なのです。人間で言えば難波
走りを想像してもらえば分かりやすいと思います。

功木家の他のハム様の歩き方はどうかといえば、キンちゃんは肩を怒らせて威圧的な本当の熊みた
い歩き方をします。一方シロりんはハム様に特徴的な体の重心を落とした、きれいなほふく前進を
して歩きます。

この様に歩き方も個体によって様々なのですが、オジョーの歩き方は本当に独特であります。

他のハム様たちに比べて回転車を回している時間も少ない気がしますし、回す時の足の回転が少し
遅い気がします。なのでそれから推察すると基本的にオジョーは運動神経が悪いハム様なのだと思
いますが、そのぎこちない歩き方は何処となくユーモラスで愛らしくもあります。

しかし油断をしていると普通は功木はオジョーを上から見ていて足の部分が見えないので、歩き出
すタイミングが掴みにくくて、急に走り出されたりすると焦ってしまいます。

この様に歩き方からしてオジョーは極めてユニークなハム様なのですが、一番の特徴はやはり甘え
ん坊の性格であると思います。それはある意味で独占欲が強いということであります。

最近はあまりにもオジョーのお世話をし過ぎて、先日功木はこんな夢を見ました。

ある朝目を覚ますと、家の中には自分以外は人間が誰もいなくて、その代わりにハム様であるオジ
ョーとその家族が住んでいました。功木はオジョーとその家族の奴隷か召使のような立場になって
いて、朝から晩までオジョーたちのお世話に追われています。

功木の三度の食事はどんぶり一杯のミルワームとキャベツ食べ放題で、たまに人参が出てきます。

何故人間である功木がその様な生活をしているかというと、実はハム様たちは他の星から来たエイ
リアンで人間を高次の段階へ進化させるために、人間たちを監督しに来ているのであります。

一ヵ月後に母星であるハム・スターからお偉方が人間たちの様子を視察にくることになっているの
で、家の中をきれいにしておきなさいとオジョーに言われたところで目が覚めました。

これはあくまで夢の中のお話ですが、現実にオジョーをお世話していると、あまりにユニークなの
で本物のエイリアンではと思ったこともあります。でも、もしそうならば人類は癒されすぎて困っ
てしまうのではないかと思います。

それでは。See You Next Article!







2015/02/10 22:01:23|その他
ヘーゲル時代
現在の局面においては前回書いたハイデッガーの哲学は最も重要なのではありますが、そのハイデ
ッガーを生んだ土壌には18世紀のカント以降のドイツ観念論哲学という古代ギリシャに匹敵する
かそれ以上の黄金時代があります。

その中でも西洋哲学の歴史の中に一際高くそびえる巨大な峰があります。それがG・W・F・ヘー
ゲル(1770年8月27日 - 1831年11月14日)です。私達の世界の文化という現象
を根本的に理解する為には彼の哲学理論の理解が極めて重要になってきます。現在でも最も重要な
哲学者の一人であることは間違いありません。

ヘーゲルの哲学はそれ程重要なのにも関わらず、あまりにも壮大で堅固な体系性を持っているが為
に初学者の挑戦を容易には受け入れてくれません。

功木自身の経験から言えば、何年もかけて周到な準備をして初めて攻略しなくてはならないエベレ
スト山のような哲学であると思います。同じドイツのカントにも同じような攻略の仕方を要求され
ますが極め難さという点では両方同じくらい難しいと思います。

しかし、この極め難さという点がある意味で哲学という学問の魅力ではあります。ちょっと学んだ
だけで理解出来てしまうものに人は魅力を感じるでしょうか?確かにカント以降の哲学はいたずら
に難解な用語やジャーゴンを使う傾向がありますが、それらをどうするのか?ということはこれか
らの哲学の課題ではあります。

功木はこれからのデジタル・コンテンツ市場における哲学の重要性は今までとは比較にならない程
増してくると思いますが、その根拠はヘーゲルの哲学の文化への影響力の強大さという点にありま
す。

ヘーゲルの哲学は我々の文化にとって決定的に重要なことを言っているのに、その真意が一般の人
々には伝わっていないのが現状なのです。だからこそニーズがあると思うのです。

しかしこれを商業マーケットに乗せるには既存の方法論ではダメで、従来とは違った革新的なデジ
タル・コンテンツの登場が待たれているのです。

西洋哲学の歴史を巨視的な眼でみればヘーゲルは古代ギリシャのアリストテレスの流れを汲んでい
ます。更にはハイデッガーも初期の頃はアリストテレス学者であったのです。

プラトンとアリストテレスという古代ギリシャが生んだ二大哲学者のうちでは明らかに現在はアリ
ストテレスん的実在論の流れになってきています。これは単に哲学原理としてだけではなくて政治
、経済、文化など人間の活動のほぼ全域に及ぶ現象であります。

文化に限ってみても、これからはインターネットの技術と結びついてアリストテレス的実在論への
カスケード現象が予想されます。文化というものはある意味では仕組みを理解した者だけが生き残
れるゲーム、「文化ゲーム」みたいなところがあります。

地方分権の時代とはこの「文化ゲーム」のルール作りに地方に人々も参加するようになるというこ
とであります。このことはたとえて言うならば、近年の懸案であるTPP問題のようなものであり
ます。

どうせ自由化されるならば一日も早く参加を決めて、なるべく日本に有利な条件のルール作りに参
加した方が得策である。という考え方であります。功木は地方の現状から考えれば、この考え方に
賛成ですが、反対の方も少なくとも論議のテーブルには着くべきであろうと思います。

いずれにせよ、ヘーゲルの哲学の重要性はこれからの時代においてはどんどん増大していくものと
思われますので、我々の研究においても、この点を重要視しています。如何にすれば一般の人々に
ヘーゲルの難解な哲学を理解してもらえるか、そのための新たなデジタル・コンテンツの研究開発
やヘーゲルの哲学の現代的な解釈などを行っています。

それでは、See You Next Article!

 


 







2015/02/08 22:15:28|その他
ハイデッガー主義
このブログを読んで下さっている読者の方々と功木自身がこの世に生まれ時には写真や映画やテレ
ビなどのメディアは既に一般的に存在している環境であったと思われます。それらは全て世界を像
として捉えて受け渡しする技術であります。

なので我々は世界を像として考える習慣が自然と出来上がってしまうのです。しかし、よくよく考
えてみれば現実の世界は見方によって色々な捉え方が出来ることが分かるでしょう。ニュートンの
万有引力の法則などの古典力学やアインシュタインの相対性理論や量子論など自然科学上の法則に
定位した世界の見方もありますし、アリストテレス的に人間と世界をピュシス(自然)として生成
の位相で捉える見方もあります。

さらに西洋ではこの世界を神が創造したものであるという観点から独特な位階秩序(ヒエラルキー
)をもったものとして捉えられてきました。取り分けキリスト教世界においてはこれが世界の支配
的な見方になっていました。

一般の人々に世界が像として捉えられるようになったのは歴史的にみれば極最近のことで、写真の
発明された19世紀以降のことであると思われます。もちろん、それ以前にも遠近法などの技法を
駆使した絵画の歴史がある訳ですが、送り手と受け手の意識に技術を介することによって共通の認
識が醸成されたという意味では、やはり19世紀以降の近代化の一側面であったと言うことが出来
るでしょう。

この現象を哲学の歴史において用意したと言われているのが近世哲学の祖であるルネ・デカルトの
物心二元論であります。結局彼の思想は精神と物質を異なる二つの実体と捉えることで人間の認識
を主観と客観とに分裂させてしまったのです。

確かにそれは技術と結びついて強化されてきた面もありますが、同時に自然科学上の成果を論拠に
して反証されて、破綻してきていることも事実です。

恐らくその中で最強なのが20世になってからのマルティン・ハイデッガーの「世界内存在」とい
う考え方でしょう。それは人間の認識をデカルト的に主観と客観に分けるのではなくて、「世界」
にあらかじめ没入されているものとして捉えています。

そうすることによって主観と客観がどのように関係しあうのかというアポリアを回避出来たのであ
ります。

ハイデッガーの主著である「存在と時間」は1927年に書かれていますが、ハイデッガーの頭の
中には恐らく執筆中に映画や写真などの存在があったと思われます。それは「世界像の時代」とい
う論文を読めば想像がつきます。

ハイデッガーは20世紀の中では最高の哲学者の一人であると思いますが、その凄さは反テクノロ
ジー的なことを書いていながら最先端の認知科学の世界で強大な影響力を持っていることからも分
かります。

ハイデッガーの思想は現代の映像の時代においても最高度のアクチュアリティを持っています。
我々が世界を像として立てる(VORSTELLEN)ことを表象と呼びますが、表象の外在化が
映像であるならば、ハイデッガーの哲学は映像の時代を生きる現代人にとっての必読文献と言える
でしょう。

功木は「映像」というものに関してハイデッガーほど深く遠くまで考え抜いた人を知りません。
「映像」について深く考えたい方には是非真っ先に読んで頂きたい哲学者であります。

それでは、See You Next Ariticle!


 







2015/02/07 14:56:05|その他
再建(Reconstruction)について
「概念なき直観は盲目であり直観なき概念は空虚である」これは18世紀ドイツの哲学者イマニュ
エル・カントの言葉でありますが、これは映像と言葉との関係を考える上において基本原則となる
ものであると思われます。

これは平たく言えば、人間の認識において言葉を伴わない直感=映像はあり得ないし、逆に直感=
映像の伴わない映像もあり得ないと言うことであります。

なので映像文化を根付かせようと思えば、言葉による映像作品の価値や評価を与える場所ないし機
関が必須になってくるのであります。

これは映像作品をファンやお客さんとして評価するのではなくて、きちんとした見識を持って客観
的に評価する鑑識眼を社会の中で涵養していかなくてはならないと言うことであります。

地域の映像文化とは第一義的にその地域の人々の為のものでなくてはならないのですが、同時に普
遍的な価値を有しなくてはならないのです。

恐らく21世紀前半の哲学・思想界は、この両立困難な命題を如何にして達成するのか?というこ
とを巡って展開するのだろうなあと思います。

近年の衰退振りを見れば、「哲学」という学問は生き残りを賭けてメディア化されねばならないと
いうことは火を見るより明らかであります。

このメディア化と言うのが我々の推奨する「市民哲学」なのでありまして、その具体的な形象化が
「WEBシネマ・43」という形式なのであります。

ヘーゲル流に表現すれば「WEBシネマ・43」というのは我々市民の「映像」を通した自己認識
であります。43(市民)のアクティビティ(活動)としてのシネマという言い方もできるかもし
れません。

我々は「歴史」も「文化」も「映像」も相互に排除するものとは考えていません。足利市の先人達
の「足利学校」に対する尊崇の念、さらにはそこから醸成されるある種のマインドを持ってすれば
それらを総合して新しいカルチャーを創出できるのではないかと思っています。

長い西洋哲学の歴史の中には「弁証法」というスタイルがありますが、実は哲学と足利学校再建と
には弁証法的な繋がりがあります。哲学が普遍で、足利学校が特殊ないし個別でその間を往還する
ある種の弁証法的な運動が存在するのです。

要するに哲学再生も足利学校再建も実は同じ問題の異なった側面であるという見方が出来るのでは
ないかと思っています。

ではその同じ問題とは何かといえば、それは端的に言って「地方分権」であります。我々が前回の
記事でも書きましたように「地方分権」を日本の近代化の総仕上げと位置付けている理由はここに
あるのです。

普遍と特殊を総合して如何にして全体性の認識に持っていけるのか?文化をめぐる地方分権の問題
はここにあります。これは、つまり地方の文化を如何にして世界のマーケットに通用させるか?と
いう問題でもあるのです。

その様な訳でありますので、地方分権の時代とは文化大競争時代になることが予想されるのであり
ます。我々はその時代の為にこれからも研究を続けて行きたいと思っています。

それでは、See You Next Article!







2015/02/05 14:17:52|その他
またもう一つ未確認な飛行物体が・・・!
今日は現在足利市では雨が降っていますが、これから雪になるそうです。明日の朝は通勤や通学に
はお気を付け下さい。さて我々の戦いはこんな天気とは関係なくますますヒート・アップしていま
す。

我々の認識おいては「哲学」という学問は未だに日本人には本当の意味で根付いておらず、映像も
しくは映画とITと融合させることによって根付かせて、明治以来の日本の近代化の総仕上げにし
たいと思っています。

それは具体的にはWEBシネマ・43という名称で研究が進められてきたものでありますが、今年
はそれが「UOAK−02」により具体的な実証実験段階に入った年であります。

我々のWEBシネマ・43が他のシネマ運動と決定的に違う点はそれがアカデミックな研究がベー
スになっているところであります。研究者側の視点から言えば学問的な成果をデジタル・コンテン
ツ市場に流通されやすいようにパッケージングする際のデファクト・スタンダードがWEBシネマ
・43だと言えるでしょう。

これはただ単に映画の制作スタイルだけの革新ではなくて、資金調達やネット上のデジタル・コン
テンツの流通経路などにも及ぶ真にチャレンジングな試みであります。

我々はこの方法の成功こそが足利学校再建への最短の道になると確信しており、ひいては足利市の
国際文化都市への飛翔につながっていくものと思っています。

「足利市は足利学校のあるまち」この定義はいくら足利市のメディア化が進んでも我々全員が持ち
続けなければならない根本認識であります。

現代的なものと歴史的なもの、創造と保護、この一見相容れない両者の両立は如何にすれば可能な
のか?

この足利市が直面する難しい問題を考える上で参考にするべきはヨーロッパ最古の大学があるイタ
リアのボローニャであるだろうと思われます。

ボローニャ大学といえば法学が有名で11世紀以来現在までその長い歴史を積み重ねています。

その日本の足利学校にも比肩する圧倒的な歴史の中でも「薔薇の名前」で有名なウンベルト・エー
コが教鞭をとったりしていますし、まちには現代的な映画の研究センターがあり日本からも研究者
の人が留学したりしています。

足利市が目指すべき方向の一つのモデルとしてボローニャのまちづくりは参考になると思います。

近い将来WEBシネマ・43をボローニャの人々とネットを使って同時に鑑賞したり、論じ合うこ
とも可能になると思いますし、他の地域と一緒に「学校様サミット」なども世界的な規模で可能に
なってくると思います。

現在の「映像のまち」構想の中にも情報発信機能の強化というのも入っていると思われますが、足
利市の国際社会でのプレゼンスを考えれば、世界への情報発信というのも今まで以上に重要になっ
てくるものと思われます。

それでは、See You Next Article!