哲学研究者の功木マキオは普段どんな本を読んで、何を考えているのか?自身の研究テーマである足利学校改造論からプライベートまで。情熱を持って書かせてもらいます。
 
2015/04/01 15:12:37|その他
「ザ・再建」へ向けてオジョー・ウォークが炸裂!!!

「ザ・再建」へ向けてオジョー・ウォークが炸裂!!!

今年の戦いのスローガンが決定しました。思わぬところで不覚を取り3月危機を招いてしまった功
木でありますが、絶不調に苦しむ功木とは裏腹に功木家のハム様三姉妹は春の到来と共に絶好調で
あります。

取り分け不動のエースのオジョーに関しては、怖いくらいの仕上がり具合で今年における自分の活
躍の重要性を十分に認識しているものと思われます。

かねがね功木はオジョーはハムスターとしては天才であるかもしれないと思ってきましたが、これ
までの色々な出来事を考えると、やはりそうであるという結論に達しました。

天才が己の使命を自覚して絶好調になっているのだから、周りの者は手が付けられません。功木が
出来ることといったらビデオカメラでオジョーを記録することだけでしょう。

オジョーには演出も演技指導も不要なのであります。

それではドキュメンタリーなのではないのか?と思われるかもしれませんがそうではないのです。

我々が制作している「UOAK」の真に革新的な部分は主演ハムスターのオジョーが映画という概
念を理解して自分で演技・演出しているところなのであります。

なので正確には言えば波務川監督は助監督なのであり、真の監督はオジョーなのであります。

人間の計算合理性によらない全く新しいタイプの映画を創造しなくてはならないのであります。

我々はこの映画史上まだ誰もやったことのないプロジェクトに挑んでいる訳であります。

人間界における足利学校再建問題「ザ・再建」に関してもオジョーというスーパー・ハム・スター
ならば、いとも簡単に解決してしまいそうな気がします。

オジョーのお世話をしているとそんな気にさせてくれるのです。

今年の冬の厳しい寒さの中でも、3月のスランプの時期であってもオジョーは功木のことを癒し続
けてくれています。毎日毎日が、1分1秒がオジョーと一緒にいると輝いてくるのであります。

オジョーの存在があってこそ功木はこのブログを再開する気持ちになりました。これからはオジョ
ーへの恩返しの意味で記事を書き続けたいと思います。

今日から4月に入り、新しい戦いがスタートしますが、昨年以上の厳しい戦いが予想されます。
しかし、オジョーのいる限り全く負ける気がしません。オジョーのあの独特なオジョー・ウォーク
は我々を「ザ・再建」へ向けての最短のコースへと導いてくれるでしょう。

最後にせっかく今日はエイプリル・フールなので三つだけ嘘をつかせてもらいます。

足利学校の再建なんて絶対無理!学校さまの復活なんて永久に絵に描いたもち!足利市再生も絶対
あり得ない!

それでは、いざ春の陣へ!

See You Next Article!
 







2015/03/30 8:29:39|その他
はむの歌
                      はむを愛する人は 心清き人
                      さくらの 花のような
                      僕の友だち







2015/02/28 20:03:36|その他
映像デフレ
みなさん、今晩は。今日で2月が終わりですが、足利には今までのところ心配されていた雪は降っ
ていなくて、このまま春になってくれれば良いなと思っています。雪の降らなかった分、落ち着い
て研究ができたので、来月へとつながる態勢ができた気がします。

近年はデジタル映像機器の発達により個人や小規模の団体でも割と簡単に映像=動画を作れるよう
になってきていますが、その映像ビッグバン状態が起きた結果、映像そのものの相対的価値が下落
して映像デフレが起きています。

PCやデジタル映像機器が普及する以前は、ある意味で映像=動画そのものに希少性の面でそれな
りの価値があったかもしれません。例えばネットに動画が流れ出した初期の頃は30秒の動画コマ
ーシャルをる作って流してもらうのに10万円から15万円ぐらいかかりました。もちろん、これ
は小規模ユーザー向けで大きな企業などはもっとかかったでしょうが・・・。

現在ではカメラや編集環境のが初期にの頃とは比較にならないほど進歩していて、知識や経験があ
れば誰でも作れるようになっています。否もっと言えば人工頭脳の研究分野では映画の制作工程全
てをコンピュータが行う映画が研究されているそうです。

これからも分かるように当分は映像デフレが続きそうですが、映像の価値を上げて映像文化を市民
主体で創出していくにはどうすれば良いのでしょうか?

その為に一番大切なことは、映像そのものの価値がどこにあり、またどの様に価値付けされている
のかを知るということです。それは映像に携わる人々にとっては当然の義務であり、それ以外の圧
倒的多数の人々にとっては実存的権利であります。

我々市民にとっては映像一般や文化に対して正しい知識を持つことは重要であります。それは正し
い価値判断につながるからであります。その為には現在行われているアカデミックな議論を広く一
般レベルまで下ろしてくる必要があります。

有名なヴィドゲンシュタインのアスペクト知覚の議論を持ち出すまでもなく我々は映像を「〜とし
て」見ています。それは認知心理学の用語では概念処理と言いますが、要は概念=言葉によって見
えているものを、何ものかとして判断して見ているのです。

このことは脳神経科学の実証的な研究でも明らかにされていて、知的世界では既に一般的な見方に
なっています。

以上のことを踏まえれば映像デフレを止めて映像の価値を上昇させるには、言葉とその集合体であ
る「哲学」との共存共栄の道を選択するしかないと思います。

「哲学」といっても既存のそれを指すのではなくて21世の「市民哲学」を指すのですが、質の
高い文化を創るには高い鑑識眼を持った市民が必要で両者が生き生きとした関係で結ばれてこそ
市民文化なのであります。

市民文化としての映像=映画と哲学は不即不離の関係であり、どちらが欠けても文化の形式として
は未来はないでしょう。そうしない限り映像デフレは止められないと思うし、新しいものを創るし
か生き残る術はないのです。

このことを他の言葉で表せば「21世紀のシネマとは哲学と映像との両面からトンネルを掘ってい
って、つながった地点に打ち立てられるべき何か」と言えるでしょう。
 
映像の価値は映像そのものにあるのではなくて、社会的に外在化されている。これは現在アカデミ
ックな世界での映像研究分野での大勢をしめる見方であります。これに身体性の問題が加わり映像
の意味をめぐっては根本的な認識の変化が起きています。

映像の絶対数が増えすぎている訳ですから、我々の価値意識は当然映像を解釈する方へとシフトし
ていきます。映像の創出より映像の解釈へと向かう時代。映像の解釈論的転回。これが我々がこれ
からの時代に対して持った予見であります。

兎にも角にも映像とは海面から出た氷山の一角であり、大部分は見えない海面下にあるということ
です。映像の意味を根本的に突き詰めようと思えば、海面下の見えない部分に当たらなくてはなら
ず、その際に必要になってくる知識、それこそが「哲学」なのです。

それでは疾風怒涛の3月へ向けて、See You Next Aricle!
 







2015/02/24 20:42:00|その他
もっと光を! Mehr Licht!
ここ数日は寒さが緩んで春めいた陽気になっていますが、皆さんは、如何過ごされていますか?

功木家ではハム様たちがみんな元気になってきて、ケージや水槽から出たくてぴょんぴょん跳ねて
います。何だかハム様たちがカエルに変身してしまったような気がしていますが、とにかく元気な
ことは良いことなので、功木もフットワークを軽くしていきたいと思います。 

足利学校を最短で再建(Re-Construction)する為には文化や芸術の力が不可欠なのですが、
その意味でドイツの哲学者の中ではシェリング (1775年1月27日 - 1854年8月20日)
の思想は極めて重要な意味を持つものであります。

シェリングはいわゆるドイツ観念論哲学の哲学者でありますが、その当時のドイツロマン派の文芸
運動や最近では反原発の理論的根拠となっているディープ・エコロジーの重要な源泉の一つになっ
ています。それ程、各々の時代のアクチュアルな思想と共振する豊かな内容を持っていると言える
でしょう。

もちろんドイツ哲学の要の位置にはカントがいて、ドイツ観念論哲学も例外ではありません。シェ
リングは同時代のフィヒテと共にカントの残した物自体(自然)をどう解釈するかと言う問題に挑
み、自然、同一哲学、芸術、神話、自由などのテーマについて独自の思索を続けました。

この様に多面的な魅力を持ったシェリングの哲学ですが、足利学校の再建においては芸術哲学が重
要な示唆を与えてくれます。

シェリングは「超越論的観念論の体系」で芸術をこの世界の構成原理、超越論的哲学の系列の終極
に位置づけ、「哲学の真のまた永遠の証書であり機関」と呼んでいます。

シェリングの世界観にはプラトン、ライプニッツ、スピノザなどの影響が色濃くありますが、我々
人間にとっての芸術の意味を自然と対比させながら壮大な哲学体系にまとめ上げた力量には本当に
驚嘆させられます。

ネオ足利学校(仮称)においてはハコモノより、純粋思考体としての市民及び学生の活動性の方に
重要性があります。つまり、活動性そのものがハコモノ化されるようになるでしょう。

それにおいてはシェリングの芸術哲学を中心とした一連の著作が非常に重要なヒントを与えてくれ
ます。シェリングの思想はカントのそれに比べて完成度ないし構成性の面では劣るかもしれません
が、荒削りながら、強力なイメージ力を持っています。

このことは換言すればカントは全てを言葉で説明しようとしますが、シュリングは読者の表象=
イメージに訴えかけてくるということであります。

シェリングは表象=イメージを光のメタファーで捉えますが、このことは足利学校再建を考える上
で極めて重要です。

足利市が目指している「映像のまち」の映像とドイツ観念論哲学のシェリングの思想が「光」にお
いて接合される可能性があるからであります。

つまり「映像のまち」と「足利学校」とがシェリングを媒介項として論理的な整合性を持ってつな
がるのであります。

なので我々はシェリングを最重要哲学者の一人と位置付けて、研究を重ねてきた次第であります。

現在のネット上にはオリジナルのないコピーのコピーであるシュミラークルが増殖していますが、
それはある意味で観念の物質化と言える現象であると言えます。

非常に逆説的な言い方かもしれませんが、その様な時代にあってヒューマニズムを回復するには、
ドイツ観念論哲学やロマン派の思想をもう一度検証し直す作業が必要なのかもしれません。

最後にシェリングと同時代の作家ゲーテの名言を「空気と光と友人の愛。これだけ残っていれば、
気を落とすことはない。」

この中の「光」ってネオ足利学校のことだと思いませんか?

それでは、See You Next Article!







2015/02/22 23:25:46|その他
志向的に思考せよ !!!
哲学の用語の中には一見すると平易で何となく分かっていそうな気がしていても、実はとんでもな
く難しい概念であるというものがあります。例えば高校の倫理の教科書にも載っている「弁証法」
などが典型てきであると思いますが、それに負けず劣らず手ごわいのが今日のテーマの「志向性」
という用語です。

ちなみに、「志向性」というとよく「指向性マイク」や「指向性アンテナ」の指向性と間違えられ
ます。何かの対象に向かっているという大まかなイメージとしては共通している部分がありますが
、「志向性」の方はもっぱら人間の心に関することに使います。

さて「志向性」とは哲学史的にいえば中世のスコラ哲学における「志向的内在性」と呼ばれる、概
念に起源を有します。

あらゆる心的現象は、必ずしも同じようにではないが、自身の内に対象として何者かを含む。表象
においては何者かが表象され、判定においては何者かが肯定または否定され、愛においては愛され
、嫌悪においては嫌われ、欲望においては欲望され・・・というように。

現象的・自然的現象と心的現象とはこの「志向性」の有無によって区別されるとスコラの学者たち
は考えていました。

それが19世紀にブレンターノの「経験的立場の心理学」で蘇り、更に現象学運動の祖である、フ
ッサールによって現象学の用語として彫琢されていったのです。

それ以降、現在まで哲学、心理学、認知科学などの幅広い分野で人間のこころの一般的な特性を表
す言葉として使われています。

哲学を学ぼうとしておられる方には、この「志向性」という用語には最大限の注意を払って学んで
頂きたく思います。取り分け現象学の場合にはこれはある意味「アルファでありオメガである」概
念であり、この志向性の壁を乗り越えることが、それ以降の長い旅路の第一関門であると思います


フッサールの「志向性」という概念装置は人間の意識を研究する上で必須であり、きちんと理解で
きなければそれ以上先に進めないほど基礎的でもあるのです。

しかし考えてみれば「志向性」とは、本当に不思議な概念であります。西洋の現代哲学最大のキー
概念の一つでありながら、その意味することが一般の人にはほとんど理解されていないという不幸
な状態にあるのです。そして、それは現象学自体に対する無知や不理解を生んでいます。

ただ「志向性」の問題は極めて原理的なもので、それ自体は誰でも理解可能なものであり、むしろ
逆に簡単すぎて腑に落ちないところがあるのかもしれません。

哲学を専門に研究しておられる方もこの事に関しては、もっと積極的に広く一般に知れ渡るように
努力をすべきだと思います。「志向性」に限らず「弁証法」「実体」「観念」・・・など哲学を学
ぶ上で重要なのだけれどとっつきが悪い基礎概念は利害得失を超えて公共的かつ社会的な「知識遺
産」として優先的に保護され普及啓蒙されるべきだと思います。

もちろん我々もこれからの時代にマッチした新しい哲学学習法を日々研究開発しているのですが、
これは学習主体である市民の方々や学究の徒の方々の価値意識に根ざしたものでなくてはならない
と思っています。

なので結局、哲学を普及させて根付かせる為には新しい価値の創造しか方法はないのでないかと思
っています。それは言葉を換えて言えば新しい文化の創造であります。

我々の当面の主眼は哲学を文化として再創造するということでありますが、そこに本丸の議論を乗
せることも可能であると踏んでいます。

いずれにせよ、人跡未踏の領野での新しい可能性への挑戦はこれからが本番であります。
皆さんも、未来を志向的に思考してください。そうすれば未来は嗜好的にやってきます。

それでは、See You Next Article!