さて前回の記事の続きですが、何故現代社会において表現の自由がそれ程重要なのかと言えば、そ れが統治性の概念と結びついているからであります。
近代国家の歴史は表象に関する統治性のテクノロジーの歴史であると言ってよい程なのです。
我々の研究から言えば近年の地方分権の動きは地方をめぐる認識論的な囲い込みの再構成化である と見て良いと思います。
つまり道州制や連邦制が日本に導入されたとしても地方はなくならないということです。では何が 変わるかと言えば国家の制度によって囲い込まれていたものが国民=大衆による囲い込みに変わる だけなのです。
そもそも地方という概念自体が先述した超越論的アンチノミーによって生じた仮象なので、根本的 にそれを解消しない限り永久になくならないのです。
そこでアンチノミー解消の方法ですが、カントの「純粋理性批判」の中にあるようにアンチノミー の発生原因は実践的な関心であるのであります。
我々はカントのいう実践をアフォーダンスというJ.J.ギブソンの生態学的心理学の用語に置き 換えて考察を進めてきました。
今までの地方という制度の最大の問題は、普遍の名の下に地方における特殊ないし個別を表現レベ ルの自由において抑圧してきたという点であります。
この点は90年代以降の人文諸科学における膨大な実証研究の成果がありますので興味のある方は そちらを参照して頂きたく思います。
結局、地方分権とは地方が自由を受け入れるかどうかの主体的判断が問われている問題なのだと思 います。
何故、地方には自由がないのか?何故、地方分権を行わなければならないのか?これらの重要な問 題を考える上でも実は別のアンチノミーが介在しているのです。
これはJ.S.ミルやトクヴィルの議論を発端として近年問題になっている多数者の圧制と伝統的 な議会制民主主義における少数者の圧制とのあいだに起きているアンチノミーであります。
これらの二つのアンチノミーへの解決策として近年注目されているのがドイツの哲学者であるマル ティン・ハイデガーの思想やアメリカの哲学者たちのプラグマティズムの思想であります。
足利市の人口減少問題及びその解決策に関してはその問題の本質を的確に捉えて世界的な歴史のう ねりの中に位置付けて考えることが肝要であると思います。
さらにもう一度付け加えるならば、危機的状況を乗り越えるには「歴史を前進させること」これに 勝る解決策はないのであります。ハイデガーの術語を借りれば「本来的な自己に立ち返る」ことこ れに尽きるのであります。
まずは皆さん、我々が歴史にアンガジェできる最も直近の機会である明日(12日)の選挙に行っ て投票しようではないですか。
|