哲学研究者の功木マキオは普段どんな本を読んで、何を考えているのか?自身の研究テーマである足利学校改造論からプライベートまで。情熱を持って書かせてもらいます。
 
2014/03/19 23:44:05|その他
夢について
功木が哲学を志した頃の夢は実にささやかなものでした。「普通に哲学書を読んで普通に理解でき
るようになる」というものです。これは前回の記事で書いた「ソフィーの世界」の影響が大きい気
がします。

その頃は、それがどんなに大変なことなのかを理解していませんでした。普通に読めるようになる
のは、さほど難しくないと高をくくっていたところがありました。

しかし実際に足を踏み入れてみると、西洋哲学の歴史2500年はとてつもない壁となって功木の
前に立ちはだかってきました。

難解さをもって知られれる哲学史上の書物は初学者だった功木の甘い夢を完膚なきまでに打ち砕き
ました。

読んでも読んでも内容が頭に入って行かない時期もありましたし、哲学のことなどきれいさっぱり
忘れて何か違うことを志そうと思ったこともありました。

今から考えれば挫折しない方が不思議なほどの前途多難な状況でしたが、何が功木マキオをそこま
で突き動かしたのかは、正直なところ自分でも良く分からないのです。

結局、最後は哲学書を手に取ってしまうのです。

このようなことを何度か繰り返すうちに、自分は「哲学」という学問に選ばれているのだという意
識が芽生えてきました。それはやがて、功木マキオは哲学をやる為に生まれて来たのだという確信
に変わって行きました。

この辺りに来ると、「哲学」に対する使命感をはっきりと意識するようになってきました。しかし
それは哲学一般に対してで足利学校には結び付いていませんでした。

その使命感を足利学校の歴史に対する使命感へと導いてくれたのが、当時功木が新聞配達をやって
いた新聞店の店長で功木の哲トモ(哲学仲間)だったHさんです。

Hさんはその当時の功木より哲学一般に詳しくて、頭も相当良かったです。仕事の合間だけでなく
休みの日も一緒に飲みに行ったりして親しくさせてもらっていました。

そんなHさんが、ある日の雑談の中で言った「足利学校でヘーゲルの精神現象学を教えてもらいた
い」という一言が功木の頭の中に残っていて、その後具体的な像を結んでいったのです。

これが足利学校改造論に関する歴史の真実です。

功木は一体何処から「哲学」と「足利学校」を結び付ける想を得たのか、とよく聞かれるのですが
、以上の記述をもって公式発表とさせてもらいたいと思います。

何はともあれ、足利学校を再建するという発想の原点はそこにあるのです。

「足利学校再建」という究極の(CITZEN DREAM)市民の夢の実現へ向けてこれからも、
日々「哲学」の研究にいそしみたいと思います。

IDEA_MEN(イデア・メン)=功木マキオとしては、それしか仕様がないのですから。

Schluss fur heute!


 







2014/03/17 7:13:16|その他
僕はなぜ「ソフィーの世界」を薦めるのか
皆さん、こんにちはIDEA_MENこと功木マキオです。昼間はめっきり春めいてきましたが如
何お過ごしですか?

つい最近、ある若い女性に哲学の素晴らしさを理解してもらおうとヨースタイン・ゴルデルの「ソ
フィーの世界」を読むように薦めたところ、高校の時の教科書に載っていたと言われました。

初めて読んだ時の感動が忘れられず、今でも事あるごとに人に薦めている本なのでとても嬉しくな
りました。

「ソフィーの世界」は実はこのブログ「マキロジー・ザ・バイオロジー」の原点とも言える作品で
す。功木は功木マキオ版の「ソフィーの世界」が作りたくて、このブログを書き始めたという面が
あります。

「マキオロジー・ザ・バイオロジー」に関して言えば非常に実験的な要素の多いブログだと思いま
す。色々なものが未整理のまま、ごった煮の状態で詰まっている感じです。

「功木は足利学校を再建するなどと壮大なことを言っているが、ブログしか書いていないではない
か」と揶揄する声が聞こえてきそうですが、ご心配なかれ。

このブログを書くこと自体が将来の足利学校再建への重要なスッテップになっているのです。

その事を理解してもらうには、哲学史の中で「実体」の概念がどの様に変遷して行ったかを理解し
てもらわなくてはなりません。

具体的にはスピノザからヘーゲルへの変化です。スピノザの静的な「実体」からディアレクティー
ク(弁証法)の組み込まれた、対話的な要素のある動的な「実体」への変化が起きました。

これを現在のこのブログとのアナロジーで理解してもらいたいのです。要するに「マキオロジー
・ザ・バイオロジー」がスピノザの「実体」で次のステップがヘーゲルの「実体」なのです。

但しご注意願いたいのは、次のステップに進んでも「マキオロジー・ザ・バイオロジー」はなくな
らないということです。若干今までとは役割が変化するかも知れませんが、存在自体は不滅です。

それと同時に新しい足利学校の雛形としての存在意義も変わりません。

さて、足利学校再建に関してですが、先ほど書いたように目下のところ箱物には全くこだわってい
ません。イメージ的にはクラウド上の足利学校が新しく創造された概念を通じて顕現するといった
モデルを考えています。

基本的にネット上のデジタルコンテンツ中心で概念重視型の全く新しい足利学校の創造を目指しま
す。

もちろん将来的にはちゃんとした建物(校舎)も必要でしょうが、それはまだ先の話です。

そして研究面では「西洋哲学と東洋哲学との総合」と「哲学と映画との融和」を2大テーマとす
る21世紀の新しい「哲学」の創造を目指します。

そんな訳で「ソフィーの世界」は読むのはそれほど大変ではないけれど、その背後に控えているも
のはとても壮大なものがあります。

これ以外にも哲学の初学者向けの優れた入門書は沢山あるので、おいおい紹介して行きたいと思っ
ています。

それでは一人でも多くの方が「哲学」に興味と関心を持って下さることを祈りつつ、

Schluss fur heute!

 







2014/03/13 19:24:46|その他
市民社会の主体的構成理論へ向けて 超シネ論考#3
市民社会の主体的構成の理論へ向けて

まず「市民社会」とは何ぞや?という問題ですが、それは市民の一人一人の想像力によって構成さ
れた一種の集合表象だと考えます。個人個人は色々なことを考えたり感じたりしているのですが、
結果として、E.デュルケームのいう全体的かつ統一的な「もの」としての性質を帯びています。

それは何故なのかと言えば、社会の起源において社会契約論的なある種の「約束」が生じた為と考
えます。

しかしよく考えてみて頂きたいのは、そのような原始的な時代の「約束」が現在のグローバル化し
たインターネット社会に果たして有効なのでしょうか?という事なのです。

そのことを考える為には我々の「想像力」によって市民が如何にして構成されるかを検証しなくて
てはなりません。

超シネ論考の中でも書きましたが、映画の見方には人間の認知能力に由来した二つの見方が存在し
ます。

もちろん我々はどちらの見方をするかに関しては絶対的な自由があります。しかし見方に応じて作
品の印象は全く違ったものになります。

マキオロジーが根本的に問おうとしているのは正にこの違いをどう捉えるか?という点にあります


精神分析学の開祖であるフロイトも「知覚」と「「自我」の緊密性を主張していました。

我々の研究においては「知覚」の結果としての「想像力」に対して「哲学的想像力」と命名をして
文化=歴史的な観点から研究を重ねて来ました。

この研究の真の難しさは研究対象が「市民社会」という実体のない抽象的な想像力の産物である点
です。しかも、さらに「歴史」という時間的な幅をも考慮しなければならないのです。

次に主体的ということですが、これはヘーゲルの「実体=主体テーゼ」を参照させてもらいます。

古代ギリシャの時代から様々なニュアンスで使われてきた概念ですがヘーゲルの場合はスピノザの
実体概念を継承していて「唯一の自己原因たる神」もしくは「精神」という意味です。

ヘーゲルはその「実体」が「主体」であると言っています。主体とは「主観」と言い換えても良い
と思います。私達が普通に使う人格的な意味での主観です。

ヘーゲルがこのテーゼで言いたいのは「実体=精神」とは弁証法的な運動の組み込まれたある種の
「主観」であるということです。

そして、それになぞらえて言えば「市民的主体」とは「市民」が「主観」であること、つまりは
「市民が主役」であると言うことなのです。

それにおいて決定的に重要なことは認識の過程に弁証法的な過程が含まれていることなのです。

ここまで書けば察しの良い方は功木が何を言いたいのか分かっているかもしれませんね。

功木が主張したいのは「映画を見る見方を選択する自由と市民社会の主体的な構成とにはある相関
関係があるということです」

これをマキオロジーの第1テーゼとさせて頂きます。

それでは Schluss fur heute!

 







2014/03/09 9:53:47|その他
それは誤解です
皆さん、こんにちは功木です。今日は日曜日ですが如何お過ごしですか。

最近、このブログを書いていて困ったことが起きてきました。ブログのタイトルの「マキオロジー
・ザ・バイオロジー」に関してですが、グーグルで検索すると関連する検索キーワードが出てきま
す。それらの一覧を見ると明らかに「バイオロジー(生物学)」とそこから派生した意味の単語が
並んでいます。

これでは初めて「マキオロジー・ザ・バイオロジー」を読んでくださる方が何か生物学に関係し
たブログなのではと誤解する可能性があります。

しかし功木としましては「バイオロジー」を生物学という意味で使っているのではないのです。
それはマキオロジー(功木マキオの哲学)をbios(ギリシャ語で生命)+ology(〜学と
いう意味の接尾詞)の観点から語るブログという意味で比喩的に使っています。
もっと噛み砕いて言うと「功木マキオを生の側面から学究的に語るブログ」ということです。

現代思想に詳しい人ならフーコーやアガンベンの生政治を連想するかもしれませんが、それとはニ
ュアンスが違います。マキオロジーの中の"bios"はメディア空間の中の仮象としての人生を、物質
的リアルに対する懸隔感としてアイロニカルに表現しています。

「マキオロジー・ザ・バイオロジー」とは全体で「来たるべくそして現に到来しつつある市民哲学
の時代」を象徴的に表した一種の固有名詞であり、文化的な記号なのです。

いずれにせよ検索キーワードの件は何とか是正できないか鋭意努力中です。

Schluss fur heute!







2014/03/07 20:09:00|その他
私は一つの他者です
歴史的な一年を迎えているはずが、天気だけ先行して風雲急を告げてしまっていますが、皆さん、
如何お過ごしですか?

「哲学」に興味や関心を持って学び始める人たちの中で一番多くの人たちのきっかけになっている
のが「それまで自分が常識だと思っていたり、理解があやふやだったものが哲学ぬ触れてきちんと
言葉で定義できるようになり理解がより深まった」という経験です。

かく言う功木自身もご他聞に漏れず同じような経験をしています。それが本日書こうと思っている
ヘーゲル(1770年8月27日 - 1831年11月14日)の書いた「精神現象学」の中の「自己意識」につい
てです。

ヘーゲルといえばドイツの哲学の歴史においてカントの後を受けて起こったフィヒテやシェリング
のドイツ観念論哲学の大成者であり、同時に西洋世界の合理主義精神の頂点に君臨する人類の歴史
上最も偉大な哲学者の一人と言えるでしょう。

その作品の巨大なる峰のふもとに立った時に壮麗すぎて頂上が見えない。否、全体像すら掴めない
と言ったら良いでしょうか。功木も哲学の研究を始めた頃は近寄りがたい感じがしてあまり好きで
はなかったのですが、これから書く「自己意識」に関して眼からうろこが落ちる体験をしてそれが
180度変わりました。

私達の心は眼、耳、鼻、皮膚などの感覚器官を通じて得た外界の情報をもとに観念や概念をつくり
思考しています。意識と言うのは何らかの対象を持っていて、それを志向性と言いますが、その対
象に応じて心の外側に向かうのか内側に向かうのかによって意識が二つに分かれます。

心の外側に向かう意識を対象意識と呼び心の内側つまり心自身を対象にする意識を自己意識と呼び
ます。

ここまでは何となく直感的に理解出来たのですが、問題はその先です。自己意識が自己意識として
成立するには他者の視点を必要とするという点です。

ヘーゲルの言葉を借りれば自己意識とは他者の視点からとらえ返された自己に関する意識というこ
とになります。

ここで「他者」というキーワードが出てきましたが、ヘーゲルは「自己意識」を「意識」を持った
「主人」と「奴隷」の闘争の場として考えました。つまり人間というものを単独では完結しない、
「類的」な存在として描いたのです。

この点が後のフォイエルバッハやマルクスの唯物論哲学やJ.P.サルトルなどの実存主義哲学に多
大な影響を与えていくのです。

さらに近年の認知科学と呼ばれる心をめぐる実証的かつ学際的な研究においても「ヘーゲル」の哲
学は強大な影響力を保持しています。

以前にカントの哲学のことを書いた記事で、無人島に一冊だけ本を持っていけるとしたらカントの
「純粋理性批判」であると書きました。今回は一冊の本ではなくて一つの章をコピーして持って行
けるとしたらどの作品のどの章か?に変えたいと思います。

その答えは皆さんのご想像どうりにヘーゲルの「精神現象学」の「自己意識」の章です。

Schluss fur heute!