哲学研究者の功木マキオは普段どんな本を読んで、何を考えているのか?自身の研究テーマである足利学校改造論からプライベートまで。情熱を持って書かせてもらいます。
 
2014/03/03 18:31:29|その他
何故、映画の議論は噛み合わないのか? 超シネ論考#2
功木は昔シネフィルだった時代から、映画を読み解く能力(映画リテラシー)の必要性を主張し続
けて来ました。哲学の研究にシフトしてからもその点に関しては全くぶれていません。そこで今日
は「何故、映画についての議論は噛み合わないのか」というテーマについて書いてみたいと思いま
す。

読者のみなさんは映画の見方は人それぞれで、自分の好きなように見れば良いのだ。と思われてい
る方が多いと思います。もちろん映画業界の方や映画マニアの方は除きますが。

それはそれで一つの考え方としては正しいのですが、功木の考え方は違います。

功木が小学5,6年生だった時に映画マニア向けの雑誌で「スクリーン」と「ロードショー」とい
うのがありました。現在まだ発行されているかは知りませんが、当時映画マニアになりたての功木
は映画界の情報が知りたくて毎月欠かさず買っていました。

「スクリーン」は著名な映画評論家の映画評を読むのが楽しみで、「ロードショー」は映画スター
達の写真が楽しみで買っていました。

やがて映画の見方に関しては最初の物見遊山的な見方からカメラワークや編集、シナリオなどに着
目する高度な見方に変化して行きました。
 
当時の功木は映画は自分流の見方で見れば良いと慢心していましたが、評論家の選ぶベストテンな
どの評価基準と照らし合わせてみると何かが足りないと思わざるを得ませんでした。

評論家の先生が芸術性が高いと賞賛している作品の何処が素晴らしいのか自分では分からないこと
が多々あったからです。

その当時は映画の芸術性について本当に悩んでいました。その状態から抜け出そうして映画の歴史
を一から学び直そうと思い、映画草創期のサイレント(無声)映画を無我夢中で見まくりました。

その結果、努力の甲斐あって自分なりの映画の見方を確立できました。

あの時代の経験が現在のマキオロジーの研究にダイレクトに繋がっているのです。

映画の見方は人間の認知能力に由来する大きく分けて2種類の見方が存在します。

一つは話の筋(シナリオ)に着目する見方です。これは単純で作品を話を運ぶ乗り物とする見方で
す。

もう一つは編集という映像のカットとカットとの切れ目に着目した見方です。

前回の記事で紹介したドゥルーズの「シネマ1&2」はこの辺を詳細に論じていますが、どちらの
見方をとるかで作品の印象は全く違ってきます。

同時に両方に見方は出来ないのか?と思われる方がいるかもしれませんが、それは不可能なのです。

何故かと言えば、私たちは何かものを思い浮かべるときに一つのものしか思い浮かべられないとい
認知的制約があるからです。

それでも自分は同時に二つ以上のものを思い浮かべることができるという人がいるかもしれません
が、それは「哲学」や「心理学」の世界では「記憶」や「想像力」の働きによろものとされていま
す。

この制約はアリストテレスが同一律という言葉で表した思考の原理です。

この記事のタイトルに使われている超越論的とはこの認知的な制約を超越した視点にたった立場を
指します。そして功木マキオは映画の見方について基本的にこの見方をとっています。いわば第三
の見方です。

これは「哲学」の歴史の上ではデカルトの物質と精神とを異なる二つの実体とした物心二元論を克
服を目指したハイデッガーの思想に想を得ています。

いずれにせよ「映画」をどう見るかは非常に重要な問題なので、これからも論及して行きたいと思
います。

それでは、ひとまず今回は Schluss fur heute!

 







2014/03/01 3:34:39|その他
超越論的シネマ論考
1895年12月28日にフランスのリュミエール兄弟がパリのグラン・カフェでスクリーンに投
影する形式の「シネマトグラフ」を上映したのが映画の始まりとされています。それ以降
、映画は120年近くの歴史を持っています。

一方、功木の専門とする「哲学」という学問は西洋に限って言えば古代ギリシャ以降約2500年
の歴史があります。

世界の中でこの2つの歴史がクロスする場所が1つだけ存在します。それが20世紀最高の哲学者
の一人と言われている、今は亡きフランスのジル・ドゥルーズの書いた「シネマ1」と「シネマ2
」の2冊です。

今までに映画について書かれたの書の中で「最も偉大な書」と言われています。読んでもらえば納
得してもらえると思いますが、ドゥルーズの映画理論は同じフランスのアンリ・ベルクソンの哲学
をベースにしています。

正に「映画」と「哲学」の歴史がこの2冊の中で最高レベルの哲学的思考の中に結実しているので
す。

それらは「映像のまち」へと大きく舵を切ろうとしている足利市にとって、先の意味においてとて
つもなく重要な意味を持つものです。

その重要性はかつて栄華を誇った足利学校における孔子の「論語」に匹敵するものです。

否、「映画」の基幹産業としてのポテンシャルを見た場合に、足利市の未来を照射しているとい
う点で、それ以上かもしれません。

もう一つ重要な点は「映画とは何か?」という映画の概念そのものが専門家のあいだでも意見が分かれているという事です。

そもそも「映画」は眼という感覚器官に作用して成り立つ仕組みになっているので、理論的に追求
して行けば結局、「哲学」や「心理学」へと接合されてしまうのです。

「映画」固有の学は成り立つのか?このテーマへの挑戦は1990年代になってようやく始まりま
したが、まだ歴史が浅く、これからの分野であるという感じがします。

しかしそのような状況のなかでドゥルーズの「シネマ1&2」だけが奇跡的に学問的な強度を誇っ
ているのです。

なので、我々の未来を左右する「映画」を知ろうとするならば、それらを読むしか方法は無いよう
です。

「この書を読まずして、足利の未来は語れない」その意味で「シネマ1&2」は予言の書でもある
のかもしれません。

Schluss fur heute!

 


 







2014/02/27 20:11:31|その他
さよなら2月
次から次へと災難が降りかかって来た波乱万丈の2月が終わろうとしています。もともと日数も2
8日しかないので一月があっという間に過ぎ去ってしまった感があります。2度の大雪と母の入院
に加え功木自身も雪で転倒して足と胸を怪我してしまいました。

それにも関わらず気分は非常にポジティブな状態にあります。それは歴史的な転換点を迎えた足利
市において功木の人生における最大の挑戦が始まろうとしているからです。

今までマキオロジーの研究においては強列な逆風が吹いていましたが、ここに来て風向きが変わっ
てきたのです。いわば神風が吹き出した感があります。今まで万難を排して来た功木にとっては拍
子抜けする程の劇的な変化が起きています。

功木にとってのある個人的な問題は「映画言語」や「哲学の認識論」と密接に結びついています。
それをどの様な形で解決するのか?

功木の取った手法は功木の人生のサイクルと社会のサイクルとを同期させるという方法です。

それによって社会の集合的無意識の基底まで降りていくことが可能になりました。

自分で分析させてもらえば、マキオロジーをマキオロジーたらしめているのは正にこの部分なので
す。

マキオロジーの目的は何かと言えば、もちろん足利市民としては「足利学校の再建」なのですが、
より普遍的な意味においては世界中の人々が生まれ育った場所で夢を実現させらる社会の構築なの
です。

ちなみに、この夢の部分は「哲学」の世界では「超越」というカテゴリーで扱われていています。

夢のかなう社会の構築にはこの「超越」の不偏不党の立場に立った、発生論的な研究が必要不可欠なのです。

昨年より我が国では経済が上向きになって来ていますが、ただ単に経済的な指標にとらわれるので
はなくて、「成熟社会」おける幸福とは何かについて、「自由」や「文化」の側面から議論される
べきではないでしょうか?

今の足利市に必要なのは対話的理性に立脚した公共の議論の場だと思います。地域のメディアに存
在意義があるとすれば、その場を提供することにあるのではないでしょうか?

Schluss fur heute!







2014/02/26 19:24:01|その他
春は新しいことを始める季節です
だんだん春が近付いて来ました。春は新しいことを始めるのには打って付けの季節です。よく使わ
れるたとえですが、「私達は日頃ある色付きのメガネをかけて世界を見ている。」というのがあり
ます。その色付きメガネというのが「哲学」なのです。ちなみに自分は「哲学」なんて全く縁が無
いと思っている人でも、実は世間の「常識」という色メガネで世界を見ているのです。

恐らく読者の方の中にもこの春から新しく「哲学」にチャレンジしてみようかと思われている方も
いるかと思いますが、その方の為に初学者の方が躓きやすい点をアドバイスしたいと思います。

西洋哲学に限って言えば、「哲学」は輸入学問なので、翻訳や術語の問題が出てきます。

それまで日本語になかった概念を日本語に訳すのに先行する「仏教」や「儒教」の用語を使って無
理やり術語化した例もあります。その結果ただでさえ難しいものが余計にややこしくなってしまう
場合があります。

自分の場合もそうだったのですが、漢字を使って表記されていると、もとから日本もしくは中国な
ど東洋が発祥の地と思いがちです。「哲学」の術語の関しては語源まで遡って調べることが肝要で
あるのです。

それと現代でも普通に使っている言葉が、実は「哲学」の中ではある特殊な意味で使われている場
合があります。その代表的なものに「実体」「観念」「判断」「精神」などがあります。これらは
ほんの一例で、初学者を待ち構える最初の難関です。

これらの一見すると平易な印象をあたえる言葉が実は哲学の世界では難しいのです。さらにそれら
がどの時代のどの哲学者にどの様な意味で使われたかに注意する必要があります。現代でもそうで
すが、言葉は生きていて、常に流動的であるというのは「哲学」の術語に関しても同じなのです。

今日は特に注意してもらいたい術語である「概念」と「観念」と「表象」について解説しておきま
す。

まず「概念」ですが、「概念は、個々の物事の細かな相違点を無視して、それらが同一であるかの
ように扱うという意味で抽象的である。概念は、(それが表す)個々の事物すべてに当てはまると
いう点で普遍的である。」要はものごとの違った面を捨てて共通の面を抽象して言葉として表した
ものです。

次は「観念」です。「イデア」は、何かあるものに関するひとまとまりの意識内容を指し、デカル
トによって近世哲学的な意味で再導入された。論者によって厳密にいえば定義は異なる。プラトン
のイデアは、客体的で形相的な原型のことであるが、デカルトによって、認識が意識する主観の内
的な問題として捉えなおされたため、イデアは、主観の意識内容となり、以降、この意味での用法
のものを観念と訳している。

最後は「表象」です。これは我が国でも東京大学に1986年に「表象文化論」なる学科が創設さ
れるなど近年、注目を浴びている概念です。
「表象」とは一言で言えば心に浮かんだ心内イメージのことです。それが言葉であろうと映像であ
ろうと関係なく心に浮かんだ像のことを言います。さらに最近は文化や芸術などの人間の内面を作
品化したものも指すようになって来ています。

以上の3つの術語は一見似ているようで明らかに使われる分野や意味が違っています。最初のうち
は注意していないと混乱してしまうので特に注意してください。

「哲学」はある意味時代の産物で、新しい時代には新しい「哲学」が絶対に必要です。「時代」
と「哲学」相互補完的に機能します。これは厳然たる歴史的事実です。

新しい季節の到来と共に新しい時代の到来を予感しています。

それでは。

Schluss fur heute!
 







2014/02/22 19:02:00|その他
マキオロジーは如何なる意味で歴史的なのか
読者の皆さん、こんにちは。IDEA_MEN(超越的人類)こと功木マキオです。以前の記事で
書いたように今年は足利市にとって歴史的な年になるだろうと予想しましたが、歴史的な大雪が降
ってしまい、功木の考えとは別の意味で歴史的になってしまっています。

ただ「歴史と文化のまち」である足利市における歴史的は先の「歴史的」とは歴史の意味が違いま
す。今日は「マキオロジーは如何なる意味で歴史的なのか?」というテーマについて書きたいと
思います。

「歴史とは何か?」という問題は哲学の歴史においては「時間」や「空間」の問題に準じるくらい
に重要で古代から取り上げられて来ました。

「歴史」といえば私達は学校で習う、何年にどんな出来事が起きたかのデータの集合体と思われが
ちですが哲学や思想の世界で扱うのは「歴史に関する理論」なのです。

よく考えてみれば「歴史」とは非常に抽象的で主観的な概念です。どのパースペクト(視点)を取
るかによって全く違った相貌を見せてきます。

その意味で「歴史」とは実体的な概念ではなくて関係性の概念なのです。どの様な理論を使って「
歴史」を考察するかは非常に重要な問題になってきます。

功木マキオの哲学的研究であるところの「マキオロジー」とは正に「歴史の理論に関する研究」を
含んでいるという意味で歴史的なのです。

純粋に哲学的に見れば歴史の理論とは、理性における歴史の認識能力に関する研究です。
 
これには偉大なパイオニアがいます。近年、我が国でも著作の全集が刊行されるなど再評価が著し
いドイツの哲学者ヴィルヘルム・ディルタイ(1833年- 1911年)です。

従来の一般的なイメージではカントとハイデッガーのつなぎの哲学者であるなどと浅薄な見方もあ
りましたが近年はその仕事の重要性が徐々に認識され始めています。

カントは理由付ける能力である「理性」を自然を認識する「理論理性」と道徳や当為を扱う「実践
理性」とに分けましたが、ディルタイはその後を受けて「歴史」を認識する理性の問題を研究しま
した。

この研究はある意味でディルタイの生きていた時代よりもネット上に画像や映像が氾濫する現代社
会においてそのアクチュアリティーを持っています。

以前に書いたフランスのアンリ・ベルクソンの哲学もそうなのですがいわゆる「生の哲学者」と呼
ばれる人たちの思想は我々が現代社会を考える上でもう一度立ち返るべき準拠点となっています。

彼らの思想は我々の「生」を哲学的に根拠付けるということをやっていますが、ディルタイに関し
ては「体験」というものの構造論的な分析が重要です。

「我々が歴史的になるには、歴史の一部になるしかないのです。歴史の一部になるとは歴史に主体的に関わることなのです。」

ディルタイの哲学が我々にとって決定的に重要なのは正にこのテーゼにある「歴史への参加」を可
能にしている点にあるのです。

Schluss fur heute!