功木は昔シネフィルだった時代から、映画を読み解く能力(映画リテラシー)の必要性を主張し続 けて来ました。哲学の研究にシフトしてからもその点に関しては全くぶれていません。そこで今日 は「何故、映画についての議論は噛み合わないのか」というテーマについて書いてみたいと思いま す。
読者のみなさんは映画の見方は人それぞれで、自分の好きなように見れば良いのだ。と思われてい る方が多いと思います。もちろん映画業界の方や映画マニアの方は除きますが。
それはそれで一つの考え方としては正しいのですが、功木の考え方は違います。
功木が小学5,6年生だった時に映画マニア向けの雑誌で「スクリーン」と「ロードショー」とい うのがありました。現在まだ発行されているかは知りませんが、当時映画マニアになりたての功木 は映画界の情報が知りたくて毎月欠かさず買っていました。
「スクリーン」は著名な映画評論家の映画評を読むのが楽しみで、「ロードショー」は映画スター 達の写真が楽しみで買っていました。
やがて映画の見方に関しては最初の物見遊山的な見方からカメラワークや編集、シナリオなどに着 目する高度な見方に変化して行きました。 当時の功木は映画は自分流の見方で見れば良いと慢心していましたが、評論家の選ぶベストテンな どの評価基準と照らし合わせてみると何かが足りないと思わざるを得ませんでした。
評論家の先生が芸術性が高いと賞賛している作品の何処が素晴らしいのか自分では分からないこと が多々あったからです。
その当時は映画の芸術性について本当に悩んでいました。その状態から抜け出そうして映画の歴史 を一から学び直そうと思い、映画草創期のサイレント(無声)映画を無我夢中で見まくりました。
その結果、努力の甲斐あって自分なりの映画の見方を確立できました。
あの時代の経験が現在のマキオロジーの研究にダイレクトに繋がっているのです。
映画の見方は人間の認知能力に由来する大きく分けて2種類の見方が存在します。
一つは話の筋(シナリオ)に着目する見方です。これは単純で作品を話を運ぶ乗り物とする見方で す。
もう一つは編集という映像のカットとカットとの切れ目に着目した見方です。
前回の記事で紹介したドゥルーズの「シネマ1&2」はこの辺を詳細に論じていますが、どちらの 見方をとるかで作品の印象は全く違ってきます。
同時に両方に見方は出来ないのか?と思われる方がいるかもしれませんが、それは不可能なのです。
何故かと言えば、私たちは何かものを思い浮かべるときに一つのものしか思い浮かべられないとい 認知的制約があるからです。
それでも自分は同時に二つ以上のものを思い浮かべることができるという人がいるかもしれません が、それは「哲学」や「心理学」の世界では「記憶」や「想像力」の働きによろものとされていま す。
この制約はアリストテレスが同一律という言葉で表した思考の原理です。
この記事のタイトルに使われている超越論的とはこの認知的な制約を超越した視点にたった立場を 指します。そして功木マキオは映画の見方について基本的にこの見方をとっています。いわば第三 の見方です。
これは「哲学」の歴史の上ではデカルトの物質と精神とを異なる二つの実体とした物心二元論を克 服を目指したハイデッガーの思想に想を得ています。
いずれにせよ「映画」をどう見るかは非常に重要な問題なので、これからも論及して行きたいと思 います。
それでは、ひとまず今回は Schluss fur heute!
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