哲学研究者の功木マキオは普段どんな本を読んで、何を考えているのか?自身の研究テーマである足利学校改造論からプライベートまで。情熱を持って書かせてもらいます。
 
2014/04/01 11:15:00|その他
CITIZEN DREAMの根拠について
読者の皆さん、こんにちは。IDEA_MENこと功木マキオです。足利学校再建という重要なミッショ
ンを背負ってアジール界からやって来ました。自分の中では時間の感覚が無いのですが、カレンダ
ーを見たら4月1日ということなので、とりあえず頑張ります。

さて本日は「何故、足利学校は再建されなくてはならないのか?」という根本的な問題について考
えてみたいと思います。

我々の研究では、その根拠について実にさまざまな面からアプローチしてきましたが、学問的な面
においては古代ギリシャのアリストテレスの「形而上学(メタフィジカ)」という文献によるものが
あります。

「形而上学」といえば2500年ほどの歴史を持つ西洋哲学史の中でも最重要文献の一つと見られ
ています。その中に足利学校再建の必要性の根拠を読み取ることができます。

その中の中心概念である「存在論」を扱った箇所で「形而上学は存在を存在するものとしてではな
くて、存在そのものとして研究する学問である」とあります。

「存在」を個物と一体となった特殊な「存在」として研究するのではなくて、抽象的かつ普遍的な
「存在そのもの」として研究するという意味です。それが「形而上学」であるとアリストテレスは
言っています。

何故そのことが足利学校再建の必要性の根拠となるのでしょうか?

それは次の2つの理由によるものです。

我々足利市民は生まれながらにして、足利学校のあるまちに生まれているので必然的に足利学校の
存在について問うように条件付けられた存在であります。それは一種の宿命と言って良いでしょう

というのは、その物理的かつ地政学的な条件により我々の意識は内観への触発を受けていて、その
結果「足利学校への存在への問い」は強化されるのです。

つまり我々足利市民は恒常的に足利学校への形而上学的意識を持つように方向付けられているので
す。

これが第1の共時的な力のしくみです。

もう一つの通時的なつまり過去から現在への力として、記号連鎖の認識論的な強制力があります。

米国の哲学者パースの学説によって、我々の認識が記号的だとすれば、我々は記号的な推論によっ
てしか思考しかできないことになります。

ということは我々足利人の市民的アイデンティテイーの根源に足利学校があるとするならば、それ
と整合性を欠いた思考は原理的に不可能であるということができます。

このことは決定的な意味を持っています。何故なら足利学校の歴史の起源において我々は足利学校
に対して超越的かつ形而上学的な意識をもって捉えていたからです。

ちなみに、この点に関しては最近の認知考古学上の成果が科学的な実証性を持って裏付けています

なので足利学校が休眠状態にある現在でも、我々足利人の足利学校に対する意識は形而上学的であ
ると言えると思うのです。

そして、そのことが我々の意識の志向性をアリストテレスの「形而上学」という文献に向けさせて
いるのです。

結局のところ足利学校の再建への本質的な部分は我々足利市民の集合意識の研究がベースになりま
す。それを我々がどう解釈するのか?

最後に最初に掲げた問いの答えを書くと、アリストテレスの言葉にある「我々人間は生まれながら
にして知ることを欲す」ということになります。

Schluss fur heure!
 







2014/03/28 19:46:00|その他
記号と映画  超シネ論考#5
ここ数日の暖かさに誘われて、ちらほら桜の花が咲き始めましたが、皆さん如何お過ごしですか?

さて今回は記号(シーニュ)と映画の関係について書きたいと思います。

映画を見るのに重要な学問的な枠組みにソシュールを開祖とする記号学とパースの記号論がありま
す。
記号というのは意味を入れる入れ物のようなもので、さまざまな物が考えられますが、何といって
一番身近なものは言語です。

ソシュールは記号(シーニュ)を記号表現と意味とに分けてシニフィアンとシニフィエと名付けま
した。我々の使う言語の体系をラングとし言語の運用能力のことをランガージュとしています。

ソシュールの記号に対する考え方は後に「記号学」と呼ばれるようになり、ロラン・バルトやクリ
スチャン・メッツ、メルロ=ポンティなどの重要な記号学的映画研究を生み出すことになります。

それらに対してパースの方は、記号は物理的指示作用と図像的表示能力をもつとし、さらにこの二
つの作用の総合として象徴作用という第三の意味作用が生じると考える。パースは記号のこのよう
な三つの意味の位相を<インデックス><アイコン><シンボル>と呼び分ける。記号とは常に低
次の意味作用から高次のものへと発展する、記号は時間の中にある、と考えます。
 
パースの記号に対する考え方は「記号論」と呼ばれてドゥルーズやウンベルト・エーコの映画論の
中で取り入れられています。

言葉を記号とする考え方はジョン・ロックの哲学史上に名高い「人間悟性論」に出てきますが、
映画を記号的に研究する学問は歴史が浅いのです。もっとも「映画」の歴史自体が短いので当然な
のですが。

伝統や歴史を重んじる「哲学」の世界では「記号」はモダン過ぎて、あるいはある種の軽さが災い
して評価はそれほど高くない気がします。今後新しい展開が期待される分野なのかもしれません。

ところで、デリダやドゥルーズ、フーコーなどのいわゆる現代思想と呼ばれる人たちは現代的なテ
ーマに対して歴史の重みにある「哲学史」と実証性のある最新の学問的の成果を織り交ぜて使う傾
向があります。

彼らの仕事をあまり好きでない人達からはアクロバティックと揶揄されていますが、功木はむしろ
創造的な表現スタイルであると肯定的に捉えています。

ただ記号に関する学問のボトルネックはある種の実証性を欠いている点にあると思います。である
からこそ他の学問分野から無理やり引っ張ってきて、学問的な重みを出さなくてはならないのです


現代思想の思想家達の作品はあと数十年すれば正統な哲学史の中に取り入れられるでしょう。

同じように記号の学問は正統性を獲得できるのでしょうか?

その答えは、これからの研究者達の頑張りに懸かっているのです。

Schluss fur heute!







2014/03/26 22:24:07|その他
春よ、来い! 超シネ論考#4
読者の皆さん、待望の「哲学」の春がもう間もなくやって来ます!

功木はこれまで「春」という季節は研究のやりやすい冬が終わってしまうのであまり好きではあり
ませんでした。たとえて言えば「宿題が終わらないうちに夏休みが終わってしまう」気がしていた
のです。

でも今年の「春」は特別です。宿題を終えて準備万端で春が迎えられます。

以前にこの「超越論的シネマ論考」シリーズの記事でも触れた21世紀の映画哲学のバイブル(聖
典)と言われている「シネマ1・運動イメージ」と「シネマ2・時間イメージ」を書いたジル・ド
ゥルーズですが、彼は哲学についてこう言っています。「概念を新しく創る」ことだと。

上記の2作や「差異と反復」「意味の論理学」「アンチ・オイディプス」「千のプラトー」などの
彼の著作は彼の死後20年近く経ちますが近年、益々人気を高めています。

彼の思想が「哲学史」と「映画史」の結節点に位置するのは論を待たないのですが、歴史的な評価
という点ではまだまだ、これからという気がします。

というのは映画そのものの存在論的な意義がまだ確定していないからです。映画を思索して論じる
には「概念装置」が必要なのですが、それがまだ整備されていないのです。

功木はまさにこの部分が「市民哲学」与えられた重要なテーマの一つであろうと考えます。

社会人類学者のアーネスト・ゲルナーは「民族とナショナリズム」という本の中でナショナリズム
とは国家の単位と文化の単位を一致させることだと定義しています。

この言葉は地域主権の時代の我々市民にもそのまま当てはまると思います。

つまり市民にはそれ固有の文化が必要であり、それがそのまま市民のアイデンティティーの根源と
なっているのです。「文化なくして市民なし」なのです。

ここで言っている「文化」とは「学問」や「芸術」を含んだ上位の概念としての「文化」のことを
指しています。

近年、気象予報の世界で「今までに経験したことのない〜」という表現が使われます。これは我々
市民の世界でも同じで、全くの未曾有の時代を迎えつつある今、我々のアイデンティティーの根源
に関わる重要な問題である文化政策についてオール市民で論じ合うべきだと思うのですが。

読者の皆さんはどう思われますか?

古代ギリシャのソクラテスやプラトンの時代から哲学の基本は対話にありました。それはネットの
時代になっても変わらないのです。対話をしながら思考し、概念を創る。そのことが社会的価値の
創造であり哲学なのです。

それではドゥルーズの残した偉大な書物に感謝しつつ

Schluss fur heute!
 







2014/03/24 23:50:21|その他
歴史へのアンガージュマン
学生諸君は春休みに入ったようですが、読者の方は如何お過ごしですか?功木はいろいろと忙しい
日々を送っています。
さて本日はタイトルにある「歴史へのアンガージュマン」とは何かについて書いてみます。

「アンガージュマン」とは「約束」「契約」「拘束」などをあらわす(engagement)が
フランスの実存主義哲学者のジャン=ポール・サルトルが彼の思想的な立場をあらわすのに使って
「政治参加」や「社会参加」という意味の術語化したもの。

サルトルによれば,人間はだれしも自分のおかれた状況に条件づけられ,拘束されているが,同時
にあくまでも自由な存在である。したがって,どんな局面においても人はその状況の限界内で自由
に行動を選択しなければならないし,自由に選択した以上は自分の行動に責任を負わねばならない


尚、動詞で使う場合はアンガジェするというように使います。

要するに「歴史へのアンガージュマン」とは歴史への能動的かつ積極的な参加を意味します。
こう書くと何か不穏なものを想像してしまう人もいるかもしれませんが、全くそうではありません
のでご安心を願います。

マキオロジーにおける歴史への参加とは近い将来必ずや再建されるであろう「新しい足利学校」の
思想的な枠組みの中で思索を展開させることを指します。それ以上でも以下でもありません。

一部で誤解があるようですが、「足利学校再建プロジェクト」とは第一義的に学問上のプロジェク
トであり、「足利学校」という概念装置の研究開発がメインなのです。

その学問上の成果をベースにして事業展開させるという方向で進んでいるのです。

足利学校の歴史的な重要性については、もうすでに何度も書いているので繰り返しませんが、我々
の切なる願いと致しましては「学校様」の価値を世界の人々に正しく評価して頂きたいのです。

「新しい足利学校」については我々市民が「学ぶ」「教える」「創る(研究)」の3つのモーメン
ト(契機)において主体的な役割を担うべきだと思います。
その為には市民の活動がそのまま「普遍」へと昇華して行く回路を作ることが肝要かと思われます

その様な世界へ先駆けての「知識循環型社会」の実現は足利学校のある足利でこそ実現可能なので
す。

察しの良い方はもうお気付きかもしれませんが、「歴史へのアンガージュマン」とは正に今読んで
頂いたことを指すのです。

最初は小さなことでも気付いてみたら歴史が変わっていた。(もちろん悪いほうに変わっては大変
すが)そんな事が起きる時代になっているのかもしれません。

その様なことを可能にするものがあるとすれば、功木は「哲学」以外にはあり得ないと思っていま
す。何故なら「哲学」は本質的には社会に内在化された一種の「価値」であるからです。

その価値とは正にアリストテレスのいう「共通善」なのです。つまり我々の社会が目指すべき目標
としての社会的価値なのです。
 
功木は「歴史へのアンガージュマン」こそが「共通善」へ至る最善の方法と考えます。何故なら歴
史こそが人類の最高の教師であると思うからであります。

Schluss fur heute!
 







2014/03/23 10:50:00|その他
連休中のちょっといい話
皆さん、こんにちは功木です。3連休も今日で終わりですが、如何お過ごしですか?
本日は昨日体験した、ちょっといい話を書きます。

母親が入院している足利市内の某病院から自宅へ帰るのに足利市の路線バスに乗りました。3連休
の中日なので普段はいっぱいのアピタの駐車場も市外の行楽地へ遠出した人が多いらしくて空きが
目だっていました。

その日は病院の外来も休みでバスに乗る人も功木だけでした。
バスの運転手の人は60前後に見える色の浅黒いやせた男性でした。世間の多くの人は休んでいる
のに自分は仕事なんて、という思いからか何処となくギスギスした話しっぷりでした。

功木は運転手の人の胸中を察して、なるべく話しかけないようにと持参していた本を黙々と読んで
いました。

功木の乗ったバスは10人乗りぐらいのワゴン車のバスなので、運転手との距離が近くて、2人と
もしゃべらないと妙に重ぐるしい雰囲気が漂います。

誰か乗ってこないかと願っていたのですが、運悪くだれも乗って来ませんでした。

このまま自宅の近くのバス停に着くのかと思い始めた矢先にその出来事は起きました。

JR足利駅から西進して来て、通り2丁目の岩下書店の前あたりで車の渋滞にぶつかりました。車
の量も少なかったので一瞬事故かなと思いました。しかし本から目を上げてみ見たところそんな
感じはしませんでした。青いジャンパーを着た男の人が手信号で車をさばいていましたが、何とな
く顔の表情がやわらかい感じがしたからです。

何だろうと思って、前方の渋滞の元になっている車を見ていたら数分後に白い猫が車の向こう側か
らこちら側へ向けて男性に追いこくられるようにして出てきたのです。

その猫は停車している車を横目で見ながら、悠然と反対側の遊歩道へと歩いて行きました。

その後渋滞は解消されバスは動き出しました。

その光景を間近で見ていたバスの運転手と功木は自分たちの中で何かが変わったのを感じました。

すると、それまで一言も話さなかった運転手が突然に堰を切ったように昔飼っていた犬の話をし出
したのです。

そして、それをきっかけにして家族の事や仕事の話などプライベートなことも話してくれました。

そのあまりの豹変ぶりに最初は戸惑いましたが、功木もその運転手に昔飼っていたハムスターの話
をしてあげました。

功木がバスに乗っていたのは40分ぐらいでしたが、バスに乗った当初の重ぐるしい雰囲気から一
転して、降りるときは非常に軽やかな気分で降りることができました。

あまりに気分が良いので功木はそのバスの運転手にその時に読んでいた本をプレゼントしてきまし
た。そのタイトルはピーター・シンガーの「動物の解放」です。

Schluss fur heute!