読者の皆さん、こんにちは。IDEA_MENこと功木マキオです。足利学校再建という重要なミッショ ンを背負ってアジール界からやって来ました。自分の中では時間の感覚が無いのですが、カレンダ ーを見たら4月1日ということなので、とりあえず頑張ります。
さて本日は「何故、足利学校は再建されなくてはならないのか?」という根本的な問題について考 えてみたいと思います。
我々の研究では、その根拠について実にさまざまな面からアプローチしてきましたが、学問的な面 においては古代ギリシャのアリストテレスの「形而上学(メタフィジカ)」という文献によるものが あります。
「形而上学」といえば2500年ほどの歴史を持つ西洋哲学史の中でも最重要文献の一つと見られ ています。その中に足利学校再建の必要性の根拠を読み取ることができます。
その中の中心概念である「存在論」を扱った箇所で「形而上学は存在を存在するものとしてではな くて、存在そのものとして研究する学問である」とあります。
「存在」を個物と一体となった特殊な「存在」として研究するのではなくて、抽象的かつ普遍的な 「存在そのもの」として研究するという意味です。それが「形而上学」であるとアリストテレスは 言っています。
何故そのことが足利学校再建の必要性の根拠となるのでしょうか?
それは次の2つの理由によるものです。
我々足利市民は生まれながらにして、足利学校のあるまちに生まれているので必然的に足利学校の 存在について問うように条件付けられた存在であります。それは一種の宿命と言って良いでしょう 。 というのは、その物理的かつ地政学的な条件により我々の意識は内観への触発を受けていて、その 結果「足利学校への存在への問い」は強化されるのです。
つまり我々足利市民は恒常的に足利学校への形而上学的意識を持つように方向付けられているので す。
これが第1の共時的な力のしくみです。
もう一つの通時的なつまり過去から現在への力として、記号連鎖の認識論的な強制力があります。
米国の哲学者パースの学説によって、我々の認識が記号的だとすれば、我々は記号的な推論によっ てしか思考しかできないことになります。
ということは我々足利人の市民的アイデンティテイーの根源に足利学校があるとするならば、それ と整合性を欠いた思考は原理的に不可能であるということができます。
このことは決定的な意味を持っています。何故なら足利学校の歴史の起源において我々は足利学校 に対して超越的かつ形而上学的な意識をもって捉えていたからです。
ちなみに、この点に関しては最近の認知考古学上の成果が科学的な実証性を持って裏付けています 。 なので足利学校が休眠状態にある現在でも、我々足利人の足利学校に対する意識は形而上学的であ ると言えると思うのです。
そして、そのことが我々の意識の志向性をアリストテレスの「形而上学」という文献に向けさせて いるのです。
結局のところ足利学校の再建への本質的な部分は我々足利市民の集合意識の研究がベースになりま す。それを我々がどう解釈するのか?
最後に最初に掲げた問いの答えを書くと、アリストテレスの言葉にある「我々人間は生まれながら にして知ることを欲す」ということになります。
Schluss fur heure! |