哲学研究者の功木マキオは普段どんな本を読んで、何を考えているのか?自身の研究テーマである足利学校改造論からプライベートまで。情熱を持って書かせてもらいます。
 
2014/05/04 22:51:19|その他
We are Gakkou-sama Children !
功木は「足利学校=学校様」は何より足利市民によって研究されなくてはならないという強い思い
を抱きながら「哲学」を研究してきました。その学問の特性上から人間の思考の傾向性に逆らい、
感情や社会的なしがらみなどを排除して純粋に思考することを旨としてきました。

結果、現在の「足利学校=学校様」研究には強い危機感を抱かざるを得ません。
我々の研究においては、「足利学校」が史跡と指定されその機能を停止して以来、日本や哲学の歴
史において極めて深刻な空隙が生じてしまったと考えています。

日本の近代化という歴史のある一局面においてなされた判断が現在でも負の現象を生み続けている
現実を見るにつけ、「哲学」という学問の根本的な重要性を噛み締めながらゴールデンウィークを
過ごしています。

さて本日は皆さんにお知らせしたいことがあります。毎回このブログに掲載している写真のことを
マキオロジーでは「IDEA_MEN(イデアメン)写真」と呼ぶことにします。ある読者の方からブログを
構成する重要なエレメントなっているので、呼び方を統一した方が良いとアドバイスをして頂きま
したので今回発表させて頂きます。

既に書かせて頂いたように、マキオロジーでは箱モノとしての「史跡・足利学校」と形而上学的価
値としての「学校様」とを分けて考えています。それはエドムント・フッサールの「現象学」の認
識論における「内在」と「超越」とに対応しています。

さらにフッサールの弟子のハイデッガーの「存在論」の用語を使えば「足利学校」の存在の背後に
は、我々の「歴史意識」が潜んでいるのです。

このように「足利学校」の捉え方一つ取っても既存の「哲学」の概念装置を借用しなくてはならな
い程、「足利学校」と「哲学」は密接に結びついています。

「足利学校」の研究において「哲学」が根本的な重要性を持っているということを分かって頂きた
いのです。

功木には東洋文明と西洋文明が邂逅する「足利」という土地において「学校」という学問的伝統が
起こり、やがて「形而上学的価値」であるところの「学校様」が性起したということは単なる偶然
とは思えません。

その「約束の地」としての足利において「足利学校=学校様」の研究は足利市民が主体的に行うこ
とにこそ意義があるのです。

そして現在進行中の「歴史と文化のまち」から「映像のまち」への先進的な試みも巨視的な目で見
れば「足利学校=学校様」のあるまちの運命を感じさせる現象です。

早晩、訪れるであろう「市民哲学の時代」に備えて足利市はパラダイム・シフトの時代に入ったと
言えるでしょう。「守るより攻めろ!」なのです。足利市民の雌伏の時代は終わりを遂げたのです。

「足利学校=学校様」は人類にとって、地理的な意味においてではなくて、形而上学的意味におい
て知的世界最後のフロンティアなのです。

このことは「足利学校=学校様」の世界戦略としてもっと世界にアピールすべきだと思います。

足利市と「足利学校=学校様」との関係はイタリアのローマとカトリック教会の総本山のバチカン
との関係を参考にして考えると良いと思います。

もちろん学問と宗教との違いはありますが、その本質的な意味において見習うべきところは沢山あ
ると思います。

要は「足利学校=学校様」の世界戦略を立てなければならないという事なのです。

その世界戦略とは今までのようにアジアの中だけではなくて西洋世界をも視野にいれた「足利学校
=学校様」普遍化計画を立てなくてはならないのです。

その昔イエズス会の宣教師ザビエルが日本に来た際に「足利学校」を西洋世界に紹介したように、
今度は日本から西洋世界へ向けてある意味恩返しとして復活した「学校様」のプレゼンス(存在感
)を示すべきなのです。

明日5月5日は子供の日ですが、生物学的な意味においての子供と同じように「哲学」や「思想」
もその時代が生み出す一つの子供なのです。

「足利学校」という学問的母体が一人でも多くの子供(学問)を生んで立派に成長することを願っ
てやみません。

Schluss fur heute!

 







2014/04/29 22:26:00|その他
誰が学校様の復活を望むのか?
皆さん、こんにちは。スランプ状態から脱出した功木です。

本日は足利学校再建すなわち学校様の復活を誰が望んでいるのか?というテーマについて書いてみ
たいと思います。

以前に書いたとおりに足利学校という箱モノを建築するのではなくて市民のアクティビティ(活動
)の集合体としての足利学校でありそのシンボルとしての学校様を構築を目指します。

具体的には「ヘーゲル的ガイスト(精神)」と「学問的実体」の構造的カップリングのシステムを
インターネット上のヴァーチャル空間とリアル(現実)の世界に領域横断的に構築します。

これが我々が提唱する新しい時代の学校様の理論的なモデルなのですが、学校様は昔のままでいい
じゃないかと思われる貴兄には「誰が学校様の復活を望んでいるか?」という問題を考えて頂きた
いのです。

自分の様に足利に長年住んでいると、学校様の足利市民に対する無意識のレベルでの影響力を強く
感じるようになります。それは文化や芸術などの目に見える範囲にとどまらず、ものの見方や感じ
方、さらには思考様式まで徹頭徹尾、我々足利市民は学校様の意味の磁場に捉えられています。

それは、ある意味神聖不可侵な域まで祭り上げられていて、足利学校再建問題を今日まで持ち越し
にさせてきた一つの要因になっています。

確かに歴史と文化を重んじる保守的な方たちにとってみれば、新しいものを導入することに対して
抵抗があるかもしれませんが、「誰が学校様の復活を望んでいるのか?」という疑問に満足の行く
解答が得られればそれは氷解するでしょう。

恐らくそれには現代思想に圧倒的な影響力を誇っている精神分析学者のジャック・ラカンの理説に
耳を傾けるのが良いでしょう。

それは「無意識は他者の欲望」である。というものです。

精神分析学と言えば創始者のジグムント・フロイトによって始められた臨床的な知に重点を置く人
間の精神を研究する学問ですが、現在ではフロイト=ラカンと一対になって呼ばれているほど彼ら
の考えは緊密になっていて、彼らの思想を学ぶことは人文系の学問を学ぶ人にとって定番コースに
なっています。

足利市民以外の人たちが望んでいたとしたらそれが足利市民の集合的無意識となっているというこ
とです。それは何に対する欲望なのでしょうか?それは歴史を検証すれば明らかなように学問すな
わち「知(エピステーメー)」への欲望なのです。ちなみに(エピステーメー)とは学問的な根拠
を持った知という意味です。

その主張の根拠は次のようなものです。インターネットの普及によって知識や情報が地域性を超越
して届けられるようになり、その結果我々の社会がかつてなかった程の情報化社会に変貌して来て
います。

そして我々はそれらの情報の洪水の中で人間としての主体性を喪失してしまい、単なるネットユー
ザーに埋没してしまっています。

そのような状態の中で、かつて情報や知識が住民と生き生きとした関係で結ばれていた幸福な時代
への「憧憬(Sehnsucht)」として足利学校の全盛期が一種の理想モデルとして考えられているのです。

功木が主張したいのは足利学校再建の根拠は我々足利市民の集合的無意識の中に内在化された、足
利学校全盛期に対する一般国民の「憧憬」にあるということなのです。

なので学校様の復活はただ足利市民のみならず、それ以外の一般国民や海外の国々まで関係してく
る極めて重要かつアクチュアルな問題であるのです。

Schluss fur heute!







2014/04/26 20:47:00|その他
IDEA_MEN is BACK
今日からゴールデンウィークとやらに入った読者の方も多いと思いますが、明日無き戦いを繰り広
げているIDEA_MENにとっては普段より一層気の抜けない日々が続きます。不退転の決意で臨んでい
るのですが、何故か気力が空回りしてしまう状態が続いていました。ブログの更新も滞りがちにな
ってしまい大変申し訳なく思っています。

自分としてはどうしたら自分の精神にスイッチが入れられるのか、あれこれ悩んでいましたがこの
連休を使ってスランプ状態を脱出して一気にトップギヤに持って行きたいと思っています。その為
の方策はいろいろ考えてあります。

我々の研究にとって足利学校の再建がすべての始まりなのですがそこに至るまでの間、長い年月が
かかっています。過去にやってきたことを振り返ってみると今までやってきたことは学校様復活へ
向けて全て必要だったと再確認できました。

複雑さを極める「哲学」や「現代思想」の世界において「学校様」はある意味、白き処女地、最後
のフロンティアのポジションを有しています。そして足利市民の方は来るべき「市民哲学の時代」
への最高のアドバンテージを持っています。

このことは一部の覚者もしくは知識人たちにおいて既に常識の部類となっています。否と言うより
このこと自体が歴史の発展法則の一部になっているのです。
 
マキオロジーの研究の中では「学校様」は3つの段階を踏んで進化すると考えれれています。
それは、すなわち「スピノザ的実体」「ヘーゲル的(精神)ガイスト」「学問的実体」です。

そして、その中で2番目の「ヘーゲル的(精神)ガイスト」と3番目の「学問的実体」が主観と客
観の関係になっていて両方で現代のメディア社会を共時的な観点から分析する概念装置を形成して
います。

ちなみに現在の「学校様」は歴史的な経緯や現在の休眠状態であるという事実から考えて1番目の
「スピノザ的実体」の段階にあると言えます。

我々の世代に課せられた使命は「学校様」を現在の状態から2番目以降の段階へ進化させて「学校
様」と共に共進化することにあるのです。

西洋哲学の歴史を振り返るといくつか歴史を貫く重要なテーマがありますが、その中に「真理」と
いうものがあります。それは簡単に言えば心の中の「主観」と「客観」は一致するのか、その可否
や条件を問う概念なのです。

「学校様復活」の条件を研究しているマキオロジーにおいてはどの様な「真理」が考えられている
でしょうか。

それは以下の様なものです。「学校様の歴史的、文化的な価値を足利市民や日本国民のみならず、
アジアや欧米などの世界の人々に正しく理解してもらい、その価値を正統に評価してもらうと言う
ことです。」

この「真理」概念こそは古代のアリストテレスに由来しハイデッガー経由で現在まで繋がっている
極めて重要な哲学的テーマなのです。

過去数週間のスランプの間、功木は何度も「足利学校」に足を運んで「学校様」のあるべき姿に想
いを馳せていました。

そして分かったことは「真の学校様」とは人類の歴史上誰も見たことが無いということです。それ
は来たるべく未来にあるということなのです。現在の時点からだけでなくて常に未来に存在すると
いうことなのです。

ゴールデンウィーク初日に、スランプ脱出を期して Schluss fur heute!
 







2014/04/13 7:43:06|その他
学校様とは形而上学的価値であり、すなわち学問的実体である
こんにちは功木です。先日ある人に「足利学校改造論」の話をしていたら

足利学校と学校様はどう違うのか?という質問が出たので、本日はそのことについて書きます。

足利学校とは現在復元されて史跡となっている足利学校の建築物のことを指します。

それに対して学校様とは足利の住民が足利学校が教育機関として制定されて(奈良時代なのか平安
時代なのか鎌倉時代なのかは定かではありませんが)以来連綿と崇拝して来た意識の様態もしくは
意識の物象化された形態を指すのです。

それは換言すれすれば形而上学的価値であるのです。

ともすれば我々は学校様というと足利学校に尊称をつけて擬人化したものと思いがちですが、我々
の研究においてはそれぞれの指示対象が違っています。日常会話などでは同じ意味で使っている人
もいますが学問的な研究の中では厳密に分けて使われています。

よく足利学校(箱もの)に関しては場所が問題になりますが、学校様の存在する場所は何処でしょ
うか?

それはイデア(理念)と現象界における箱ものの足利学校との中間地点であるメディウムにあるの
です。

それは学問と我々とを媒介する地域メディアだということです。

学校様とはつまりは地域にあって「真理」の生成する場なのです。

その学校様が眠っている状態であるということは、我々足利市民にとって最大の不幸でないでしょ
うか。

そのことによる弊害は極めて深刻なものがあります。

我々全足利市民は足利学校=学校様の再建=復活の重要性を認識していながら何ら進展しない現実
によって我々の集合意識が虚偽意識へと転化してしまっているのです。

学問や芸術において必要なのは我々の意識が真理状態であることが必要なのです。哲学の世界では
それを超越論的意識と呼びます。

我々の研究では学校様がアクティブな状態である事と超越論的な意識とは極めて強い相関があるこ
とが実証されています。

これはただ単に経済的な問題ではなくて我々の「こころの問題」であるのです。

皆さんご存知のように我々の属する宇宙は今から137億年前に起きたビッグバンによって誕生し
それ以来膨張し続けています。そして地球上の生命は進化を続けています。よって人間の自己意識
の投影であるところの学校様も進化の途上にあるのです。

それは当然歴史の発展法則である弁証法的なプロセスになるだろうと推測できます。

我々の理論では初期の学校様をスピノザの実体になぞらえます。そしてそれが動的な対話的な要素
を内在化させてヘーゲルのガイスト(精神)へと進化したと考えます。

学校様の本質は先に書いたように形而上学的価値であるのですが、それは詳しく言うと学問的実体
、すなわち学問と市民が生き生きとした関係で結ばれている状態のこと、を意味します。

このテーマはとても重要なので次回も引き続き書きたいと思います。

それでは一旦 Schluss fur heute!
 







2014/04/05 16:55:01|その他
桜の木の下で考えたこと
今年も桜の花が咲きました。今週末は足利市近郊はお花見日和ですね。読者の皆さんはもうお花見
に行かれましたか?

功木はブログに載せる写真を撮るのを兼ねて、自宅近くの神社の桜を見てきました。今回アップし
たのがその時の写真です。

つい先日咲いたとばかり思っていましたが、風に吹かれてもうかなり花が散っていました。

あまりのはかなさに、人間の人生も宇宙的な時間からすればこの桜の花びらの様なものなのかなと
妙に感傷的な気分に襲われました。

今日で自分の人生が終わってしまうかも。そんなことあり得ないと昔なら思ったかも知れませんが
今は違います。確かに1時間後には自分はこの世からいなくなっている可能性がある。この厳然た
る事実を受け入れることができるようになったのはプラトンの「パイドン」を読んだお陰です。魂
(プシュケー)の不死という考え方を学んで人生を肯定的に捉えることができるようになったので
す。

それ以前の功木は些細なことで悩んでいました。ある程度若い時期は確かに悩む事は必要なのかも
知れませんが、それも程度問題で悩みすぎは良くありません。

悩んだときは先人たちの知恵を借りるのが良いと思います。身近に信頼できる人がいればその人に
相談をするのも良いし、それが功木の場合はプラトン哲学との出会いだったのです。

プラトンの哲学は日本語で読むと一見平易に思えるのですが、ちゃんと理解しようと思うと非常に
奥が深いです。先述の「パイドン」から始まって「ティマイオス」の宇宙論や「饗宴」の恋愛論ま
で、1週間ぐらいかけてプラトン全集を読破したのを覚えていますが、どれだけ理解できたかは甚
だ疑問です。

プラトンの凄さはむしろ後年ハイデッガーやホワイトヘッドなどの作品を読んでいる時にその影響
力の強大さを知って実感しました。

プラトンの残した作品はまさに人生の師の名にふさわしいものです。功木は人生や学問上の難問に
ぶつかると決まってプラトンに立ち返るようにしています。

この問題に対してプラトンならどう考えただろうか?と偉大な叡智の言葉にお伺いを立てるように
してプラトンの書物を開きます。

その行為自体が功木にとっては学問空間へ参入するための一種の儀式なのです。

それによってプラトンの「イデアの世界」へアクセスが可能になります。

否、IDEA_MENとしては里帰りが可能になると言えるでしょう。

この世(現象界)においては桜の花はせいぜい一週間程度しか持ちませんが、イデア界においては
永遠にお花見ができます。

仕事が忙しくてお花見ができなかった人は、是非イデア界の「桜のイデア」をご照覧あれ!

Schluss fur heute!