日々、論争が起きている哲学の世界ですが、その中でも最大級の論争が認識論における「直感=記 号論争」と呼ばれているものです。
言ってみれば、最大勢力の主に「現象学」を信奉する「直観派」と新興勢力のパースの記号論を 奉ずる「記号派」との一連の人間の認識をめぐる論争と言ったところです。
「直感」なのか「記号」なのかという非常に根深い対立軸が存在するのですが、その議論は中世ヨ ーロッパの「スコラ哲学」における「普遍論争」を経由して古代ギリシャの「プラトン=アリスト テレス」さらには「ヘラクレイトス」と「パルメニデス」の学説にまで遡ることができます。
我々が主張したいのは、マキオロジーにおけるいわゆる「足利学校問題」とはその西洋哲学史を貫 く中心テーマの直系の議論であるということです。
そしてさらに、それは東西の両文明の結節点に位置する足利市で起きた議論であるというところに 歴史的な意義があるのです。
既に功木はこのブログで、「学校様の三段階進化説」を発表しましたが、もう一度「足利学校問題 」について整理しておきます。
「足利学校」と「学校様」との違いについて。
「足利学校」とは物質的レベルでの歴史的な建造物を指し、機能的な意味では「記号」なのです。 それに対して「学校様」とは我々の主観における、「足利学校」および「そこでの学問的または教 育的な営為」に対する「観念」の体系なのです。
つまり、この点で先ほど書きました哲学における「直感=記号論争」ときれいに重なるわけです。
昔から功木がことあるごとに「足利学校問題は認識論的問題である」と主張してきた論拠はここに あるのです。
この二つを分けて考えることは非常に重要であり、そうしないと厳密なアカデミックな議論は成り 立たなくなってしまいます。
アカデミック(学問的)であるとは、人々の「共通概念」に訴える議論であり、すなわち「普遍」 なのです。
よって「足利学校問題」とは人々が「普遍的」に考える事によって初めて議論が可能になる問題、 つまり「普遍的問題」なのです。
Schluss fur heute!
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