哲学研究者の功木マキオは普段どんな本を読んで、何を考えているのか?自身の研究テーマである足利学校改造論からプライベートまで。情熱を持って書かせてもらいます。
 
2014/05/20 21:37:00|その他
普遍的問題
日々、論争が起きている哲学の世界ですが、その中でも最大級の論争が認識論における「直感=記
号論争」と呼ばれているものです。

言ってみれば、最大勢力の主に「現象学」を信奉する「直観派」と新興勢力のパースの記号論を
奉ずる「記号派」との一連の人間の認識をめぐる論争と言ったところです。

「直感」なのか「記号」なのかという非常に根深い対立軸が存在するのですが、その議論は中世ヨ
ーロッパの「スコラ哲学」における「普遍論争」を経由して古代ギリシャの「プラトン=アリスト
テレス」さらには「ヘラクレイトス」と「パルメニデス」の学説にまで遡ることができます。

我々が主張したいのは、マキオロジーにおけるいわゆる「足利学校問題」とはその西洋哲学史を貫
く中心テーマの直系の議論であるということです。

そしてさらに、それは東西の両文明の結節点に位置する足利市で起きた議論であるというところに
歴史的な意義があるのです。

既に功木はこのブログで、「学校様の三段階進化説」を発表しましたが、もう一度「足利学校問題
」について整理しておきます。


「足利学校」と「学校様」との違いについて。

「足利学校」とは物質的レベルでの歴史的な建造物を指し、機能的な意味では「記号」なのです。
それに対して「学校様」とは我々の主観における、「足利学校」および「そこでの学問的または教
育的な営為」に対する「観念」の体系なのです。

つまり、この点で先ほど書きました哲学における「直感=記号論争」ときれいに重なるわけです。

昔から功木がことあるごとに「足利学校問題は認識論的問題である」と主張してきた論拠はここに
あるのです。

この二つを分けて考えることは非常に重要であり、そうしないと厳密なアカデミックな議論は成り
立たなくなってしまいます。

アカデミック(学問的)であるとは、人々の「共通概念」に訴える議論であり、すなわち「普遍」
なのです。

よって「足利学校問題」とは人々が「普遍的」に考える事によって初めて議論が可能になる問題、
つまり「普遍的問題」なのです。

Schluss fur heute!

 







2014/05/17 10:23:01|その他
現象学とメディア都市
今、まさに激動の時代を迎えている足利市ですが、功木は後の世代の人々が足利市で起こった事を
きちんと検証できるように様々な歴史記述を残しておくべきだと思います。

それは外から見た視点ではなくて、足利市民としての意識に立脚したものであるべきだと思います
す。ただそれと同時に客観中立的なアカデミックな視点も担保されなくてはならないのです。

この一見両立不可能と思われる命題を可能にするのが、「現象学」という哲学なのです。そして、
その実践的方法を「現象学的記述」と言います。

「歴史と文化のまち」足利市において「歴史」の観念が重要なことは論を待ちませんが、その研究
方法については人によって千差万別で方法論的な統一が取れていない気がします。

19世紀のドイツにおいて「歴史学」と「哲学」との壮絶な「歴史学論争」が起きました。それは
「歴史」をどう扱うかについての研究者間の学問的なイデオロギー対立が原因です。

「歴史」を客観的に扱うのか、それとも「思想」や「観念論」的な要素を重視して扱うのかという
考え方の違いです。

功木の考え方はどちらかと言えば後者です。しかしその後の「哲学」発展によって対立は乗り越え
可能になったと思います。

その最たる例がフッサールの「現象学」という「哲学」だと思います。

その理由はフッサールが「現象学」の技法である「超越論的還元」と「形相的還元」によって、人
間の意識の実相にせまることに成功したからです。

これによって、「歴史学論争」における不毛な信念対立は乗り越え可能になったのです。

考えてみれば、これは学問の歴史における偉大な成果であると思います。というのは、その土地に
住んでいる人々の主観的な記述が「形式主義」的なバイアス抜きでストレートに記述可能になると
いうことを意味するからです。

ただフッサールの「現象学」に関して言えば「現象学運動の聖典」と呼ばれている「論理学研究」
と「「イデーン」は非常に難解で読み解くのが非常に困難です。それらをやさしく解説した二次的
文献がたくさん存在しますが、それら自体が書いた人の主観的なバイアスが入っていて、それらだ
けを読んで「現象学」を理解したと思うことは禁物です。

もしフッサールの「現象学」をきちんと理解しようと思うならば、最終的には「論理学研究」や
「イデーン」と対決しなければならないのです。

功木はフッサールの「現象学」は足利市の歴史においても、多大な貢献をしてくれる学問であると
思います。それは先に書いた理由に加えて、足利市が「歴史と文化のまち」から「映像のまち」そ
してさらには「メディア都市」へと成長軌道を描いて行く過程において人々の心を結びつける紐帯
の役割を果たすであろうと思われるからです。

功木は足利市の現在の方向性は今までとは180度方向転換したとは思っていません。「歴史と文
化のまち」路線から基本的には変わっていないのです。変わった点は「映像」という「表現」の要
素が加わったのだと思います。

最後に断っておきますが、功木マキオは預言者なのではありません。学校様に定位したリアリスト
(現実主義者)なのです。

Schluss fur heute!
 







2014/05/14 0:54:04|その他
「学校様前」という真理の場
今月(5月)はGWがあったので、気が付けばあっという間に月の半ばになってしまいました、残
りの後半も全力で突き進みたいと思います。

皆さん、こんにちは功木です。本日はマキオロジーにおける「学校様前」という真理概念について
書きたいと思います。

「哲学」という学問には「真理論」という人間の認識における主観と客観の一致の条件を問うカテ
ゴリーがあります。哲学の数だけ「真理論」の数があると言えるほどいろいろな考え方があるので
すが、マキオロジーにおいては「学校様前」という概念装置を使って真理論を展開していきます。

マキオロジーにおける「真理」とは基本的にはマルティン・ハイデッガーの真理概念に依拠してい
ます。それは人間という「世界内存在」において存在の真理が生成する必要十分条件たる「非腹蔵
性」のことを指します。

そこには「言葉は存在の住み家である」という言葉にあるように、言葉を解する「人間=世界内存
在」においてのみ「真理」は生成するというハイデッガー流の存在論的な解釈がなされています。

マキオロジーにおける「学校様前」という真理概念はハイデッガーの真理概念を「純粋思考体」と
しての「学校様」に導入したものです。

それはつまり、人間の意識の中における狭雑物を取り除いた純粋意識の中に現れる「真理」。
「学校様前」とはその真理が生成される場であり、「学校様」とはその真理生成の際の「審級」と
して機能します。

では何故、「学校様」ではなくて「学校様前」なのかと疑問に思われるかも知れませんが、そこに
重要な意味があります。

我々は普段、何か分からないことがあった時や困ったことができた時に、図書館や書店またはネッ
トなどで蓄積された情報を頼ります。(もちろん人間の脳に記憶された情報も含みます。)

そしてそこに何か絶対的な価値を見出してしまいがちですが、その見方は本当に正しいでしょうか
?そもそも、その情報が何故そこに存在しているかという存在論的な問い方をしてみないと物事の
本質は見えてこないと思います。

そこで我々が提唱する「知のアフォーダンス」という概念が必要になってくるのです。

それは言わば、「情報化社会」における我々の知性の新しい戦略であります。供給過多になってい
る膨大な情報に対する自己防衛であり、ヒューマニズムの実存論的な復活なのです。

我々のような機能的に分化された複雑な現代社会に生きている人間にとってみれば、物事の本質を
問うことは非常に困難な状態にあると言えます。ただ、だからと言って周りに流されるだけではい
けないと思います。

「学校様」には真理は存在しない。と言わなくてはなりません。そこには単なる「情報」や「知識
」があるだけです。「真理」の生成する場所は「知識」や「情報」とそれを解する「人間」との間
に生成するのです。それを我々は「知のアフォーダンス」として術語化したのです。

つまり「学校様前」において生じる「もの的価値」から「有用性」への価値転換の現象を「知のア
フォーダンス」と呼ぶのです。

以上、この様にマキオロジーでは「足利学校」という歴史的な観念に「学校様」という「哲学的」
かつ「現代的な」観念を付加していく思想なのです。

それはイマニュエル・カントの「純粋理性批判」の中に出てくる総合判断なのであり、学問の普遍
的原理に則って行われています。

それでは、また近いうちに。

Schluss fur heute!







2014/05/11 21:21:30|その他
IDEA_MENの母に
こんにちは、皆さん。功木マキオです。今日(11日)は母の日と言うことなので、母のことを書
きます。

IDEA_MENに母がいるのは変だと思われる方もいるかも知れませんが、ウルトラマンにもウ
ルトラの母がいるのでIDEA_MENにもIDEA_MENの母がいても良いではないか。とい
うことで功木には母がいます。

その母が脳梗塞で足利市内の某病院に入院したことは以前の記事で書きました。幸い病状は軽くて
それほど心配することはなかったのですが、リハビリの為ゴールデンウィークの直前まで入院して
いました。

母親を診て下さった医師、看護師をはじめ、リハビリ・スタッフの方々には大変お世話になりまし
た。この場を借りて感謝の意を表したいと思います。

それと母親と相部屋になった方々にはとても仲良くしてもらい、母親も入院中はとても楽しかった
と申していました。まだ入院中の方も頑張って療養して下さい。

とりあえず功木の母は現在、自宅にいて入院前と同じ位まで回復してきていますので、母のことを
気にかけて下さっている方は安心して下さい。

しかし今回の母親の発病と入院に関しては、様々なことを体験して色々なことを感じました。
その中で一番興味深かったのは、母親の介護にする事です。

母は入院中オムツをしていて、排便や排尿は全てそのままオムツの中にしていました。病院のスタ
ッフの方々は一日何回もオムツの中に敷いてあるパッドを交換してくれていました。

入院中はその姿を大変そうだなと、感謝しつつも人事のように眺めていました。しかし、いざ母が
退院して自宅に戻ってきたら今度は功木が母親のオムツを交換しなくてはならなくなったのです。

最近の使い捨ての紙オムツは非常に良くできています。消臭ポリマーが配合されていて、便やおし
っこの臭いもほとんど気にならないレベルまで押さえ込んでくれます。

今のところ功木は1日朝晩2回母親のオムツ交換をやっていますが、高齢になって体力が落ちて行
く母を前にして奇妙な感覚を味わっています。

見た目は大人なのに段々と子供に帰っていく姿を見ていると、介護している自分もそれに合わせて
眼前の母の胎内にいた頃へと時間がどんどん逆戻りして行きます。

それは人生の時間軸を逆方向へ向けた精神のオデッセイなのです。

走馬灯のように駆け巡る、めくるめくイメージの中で功木は人間にとって「母親とは何か?」と
本質看取をしてみたくなりました。

母親と功木の関係はある意味、特殊なのかも知れません。物質的もしくは肉体的な意味で功木を生
んだのは、間違いなく母なのですが、IDEA_MENを生んだのは功木マキオなのです。

このことはマキオロジーの思想は宇宙の中の偶然が生んだことを意味します。生物学的な生命連鎖
を超越したところにマキオロジーは発生したのです。

ただし功木マキオがこの世に生まれて来なければIDEA_MENは存在しないしマキオロジーも
存在しない。

その意味では功木マキオの母はマキオロジーの生みの母でもあるのです。

話がややこしくなって来ましたが要は、母があっての功木マキオであり、母は功木にとってかけが
えの無い人物であると言うことです。

最後に蛇足になるかも知れませんが、昔、太田のブックマンズアカデミーで買ったバッハオーフェ
ンの「母権制の時代」を読みながら今日の「母の日」を終えたいと思います。

Schluss fur heute!







2014/05/09 16:45:05|その他
アルキメデスの点は存在する
足利学校再建問題に関して誤解が生じています。
先ず最初に制度や箱モノができて、その後から人々の認識がついてくると言うものです。

これは順序が全く逆で、学校様という観念上の構築物が先にできて、その後に制度や箱モノである
校舎などができてくるのです。

これは新プラトン派のプロティノスという哲学者の考え方を踏襲していて、ある「一者」から「
精神」「魂」「自然」の順に流出してくるという「エマナティオ」の思想に依拠しています。

先日、功木が足利市の某場所において行った「HATGAMI-YAMA LEKTION」において、「学
校様本体」という用語が使われましたが、それは物質的な意味における建築物ではなく様々な言説
や画像や映像などが飛び交う場所であり、そこの住人が対話を通じて哲学を学びあう新しい形の
「ロゴス共同体」のことを指します。

これと似たものは欧米の「哲学」先進国では一部で実験的に行われ始めていて、近い将来世界的な
標準モデルとなるのは確実と思われます。ただテクノロジー先行で肝心な「哲学」そのものの世界
標準化が追いついていないのが現状です。

我々の主張では「足利学校」が世界的にプレゼンス(存在感)を示すことができるのはまさに、この部分であると言うことです。

「HATGAMI-YAMA LEKTION」においては「足利学校再建」について様々な意見や質問を頂
きました。
「何十年もかかる話なのでは?」「雲をつかむ様な話だ」「政治が動かなくては駄目だ」などが一
例ですが、それらは旧来の古い足利学校モデルを念頭に置いたもので、前記の提示しているモデル
を理解して頂ければ納得していただけるものと確信しています。

さらに付け加えておきたいのは、「足利学校再建問題」にはアルキメデスの点が存在するというこ
とです。

それは一見膨大な時間と労力が必要と思えるプロジェクトでもアルキメデスが地球を梃子で動かす
ための不動の支点を求めたようにある一点を衝くことによって劇的に事態は進展するポイントが存
在するということです。

実はマキオロジーという学問的な営為自体がこの「足利学校再建問題」におけるアルキメデスの点
の発見に向けられてきたのです。

これは功木にとっても非常にリスキーな賭けでした。もしそのアルキメデスの点が発見できなけれ
ば、これまでやってきた研究が水の泡となりかねない危険があったからです。

結果として功木はその賭けに勝てたでしょうか?それには自分で答えるべきではないと思うので答
えませんが。

ただ一つ言えることは「哲学の歴史を学べば、その答えは自ずとやって来る」ということです。

功木はたまに「哲学の良い学習法はありますか?」と質問されることがありますが、それには「一
切の妥協を排除することです」と答えています。

アルキメデスの点はその一切の妥協を排した地平の彼方からご来光のようにやって来たのです。

Schluss fur heute!