哲学研究者の功木マキオは普段どんな本を読んで、何を考えているのか?自身の研究テーマである足利学校改造論からプライベートまで。情熱を持って書かせてもらいます。
 
2014/05/31 21:16:35|その他
Hello Mr. Sunshine
月日が経つのは早いもので今日で5月も終わりです。4月の絶不調の時期を乗り越えて5月は絶好
調の状態へと持っていく事ができました。

自分で言うのも変ですが、功木はもともと短期集中型の人間で好不調の波が大きいタイプです。そ
のことは経験的に分かっていたので、スランプの後には絶対に好調の波がくるだろうと予想してい
ました。そして、その予想は的中しました。

それまで五里霧中であったものが、急に霧が晴れて視界が良好になったのです。そして功木の心に
スイッチが入ったのです。

よく野球選手がスランプ状態になってヒットやホームランが打てなくなった時に、立ち直りのきっ
かけを求めてバットの素振りやランニングに励むということは聞きます。功木の場合も基本立ち返
り今までやって来たことの再検証を行いました。

結果、方向性としては全く間違ってはいないという結論に達しました。目先の結果に左右されずに
今までどおりのやり方で良いのだと再確認できました。

野球選手はシーズンが終わればオフの期間がありますが、IDEA_MENにはオフシーズンはあ
りません。なので全体としてみれば最短でスランプを脱出を脱出できたことは充電期間にもなり結
果的にに良かったと思います。

さて前々回の記事でご紹介した足利市の「鑁阿寺」のIDEA_MEN写真に関してですが、ようやく今
回アップさせてもらいます。「鑁阿寺」は足利市民のシンボルの一つとも言える重要かつ歴史的な
重みを持つスポットです。なのでイージーな処理はしたくはなかったので、時間をかけて考えてみ
ました。

今見てもらっているのがその写真なのですが、自分ではいいのか悪いのか良く分かりません。

ただ一つ言っておきたいのは、功木にとっては「鑁阿寺」は俗称である「大日様」として記憶に残
っているということです。そのことを念頭において今回は作品を創ってみました。

「大日様」に関しては「我が心の大日様シリーズ」として引き続き取り上げていく予定です。
何しろ幼少期の功木にとって「大日様」は今の子供達がディズニーランドに対して抱いている夢と
憧れ否それ以上のものを感じていたのですから。

権力者の居城ではなくて民衆の憩いの場としての「大日様」。古き良き時代へのオマージュとして
今回、作品を創ってみました。もしタイトルをつけるならば「Hello Mr. Sunshine」
としたいと思います。

それでは、また近いうちに。

Schluss fur heute!







2014/05/29 15:11:00|その他
ウディ・アレンのように軽やかに
既に何度かこのブログでも言及しているように功木の芸術の分野での師は今は亡きスウェーデン映
画界の巨匠イングマル・ベルイマンです。黒澤明にスピルバーグやジョージ・ルーカスなどの崇拝
者がいるようにベルイマン監督にも多数の崇拝者がいます。その中で最も有名なのはニューヨーク
派のウディ・アレン監督です。

尚、この情報は功木が一番熱心に映画を見ていた頃のもので、現在は大分様子が違っているだろう
と思われます。その辺はご勘弁をお願いします。

ウディ・アレン監督が世界的に有名になったのはもちろん「アニーホール」という作品がアカデミ
ー賞を取ったのがきっかけですが、それ以降「「インテリア」「マンハッタン」「ハンナとその姉
妹」など矢継ぎ早に傑作を連発し世界の映画界の巨匠に上り詰めました。

彼はユダヤ系のアメリカ人でそれに対するコンプレックスも作品を生み出す上での原動力になって
いますし、彼は基本的にコメディアン的な体質の人であります。

北欧の厳しい気候の中でひたすらに神に問題や人間の精神の冬を見つめ続けたベルイマン監督とは
まさに好対照です。ベルイマン監督の重厚さに対してウディ・アレン監督の作品は軽妙洒脱の味わ
いを持っています。

ただ正攻法に行ってはオリジナルな強みがあるベルイマンには勝てないので、ウディ・アレンの独
自色としてニューヨーカー的なスノビズムを前面に押し出しきます。

知的な世界に踏み込んで日が浅かった功木はその辺に多分に幻惑されたきらいがあります。

その一例として「アニーホール」にその当時「メディア論」で一世を風靡していたマーシャル・
マクルーハンを登場させていることが挙げられます。

それがアメリカのアカデミー会員の知的世界へのコンプレックスを刺激して結果としてアカデミー
賞を受賞することになったのです。

日本映画でいうと松竹ヌーベルバーグの連中がよく使った手です。

その当時は確かに有効な手法であったかもしれませんが、現在同じようなことをやればどうでしょ
うか?

むしろ逆に観客(オーディエンス)のルサンチマンの集中砲火を浴びる結果となるでしょう。

このように映画という芸術もしくはメディアは時代と共に変質せざるを得ない宿命を持っていると
言えるでしょう。

それと忘れてならないのは、ウディ・アレンのようにコスモポリタンの代表のような人でもやっぱ
りニューヨークという土地のローカルな人であるという事です。

功木はこれからの世界の文化や芸術の世界で一番重要なことはカントのいう「悟性」的な認識では
なくてへーゲルのいう「理性」的な認識におけるローカリズム(地域主義)の再生であると思いま
す。

我々は好むと好まざるとに関わらず、予測不可能な困難な時代に突入してしまっているのかも知れ
ません。芸術に何の価値があるのか?と問われれば功木はその生きることへの不安を少しでも解消
してくれることにあると答えたいと思います。

Schluss fur Heute!







2014/05/27 21:08:03|その他
直接知覚論的写真論
皆さん、こんにちは。功木です。

本日は先日始まったIDEA_MEN写真の新シリーズ「両毛哲学紀行(足利編)」に関して知り
合いの方やブログの読者の方から「何故あの様な構成の写真なのか?」とか「IDEA_MEN写
真の思想的な根拠は何か?」とか「どのメーカーのカメラを使っているか?」等々様々な質問が寄
せられています。

功木の創作活動に関して関心を持っていただくのは有難いのですが、主知主義的な態度を持って任
ずる功木マキオは作品の創作活動に関してもそのスタンスを首尾一貫変えない所存であります。

何故ならば功木マキオは第一義的にIDEA_MENであるからです。「哲学」をやらない功木マ
キオなど創造することも困難なのであります。

であるからにして写真を撮る際にも当然「哲学的思惟」の一環もしくは延長として行っているので
あります。

さてIDEA_MEN写真に関してですが、それはJ.J.ギブソンの「人は外界の情報を直接知
覚できる」という現在まで非常に影響力を持ち続けている認識理論に依拠しています。

それは映画の編集における「アクション&リアクションの法則」を直接知覚論的に写真の世界に応
用したものです。

広い意味では功木マキオはギブソニアン(ギブソンの思想に傾倒している人)であると言えるかも
しれません。

芸術に詳しい人ならばご存知かもしれませんが、ある意味で芸術作品自体が作家の思想を作品とし
て定着させたものであると言えるでしょう。

つまり思想の無い芸術家などあり得ないのであって、作家性イコール思想性なのです。

このことは芸術の哲学者であるアルトゥール・ショーペンハウアーの「芸術とはイデアの認識であ
る」というあまりにも有名なテーゼにいみじくも表されています

実際J.J.ギブソンの思想は芸術や美術、認知科学的な情報工学の分野で広範囲に応用されてい
ます。

新しい時代を切り開くのに芸術が非常に有効な手段であることは歴史が証明しています。

在野であるがゆえに独創的であることを宿命付けられているマキオロジーにおいても「芸術」の重
要性は同じです。

それでは、また近いうちに。

Schluss fur heute!
 







2014/05/25 23:24:35|その他
Sentimental Journey
皆さん、こんにちは功木です。5月もあと残りわずかになりましたが、読者の皆さんは如何お過ご
しですか?5月病になどになっている人はいませんか?功木はこのブログで最近始まった「両毛哲
学紀行(足利編)」のロケハン及びロケで足利市内をいろいろと巡っています。

現在住んでいる河南地区に引っ越してくる前は足利公園や森高千里の歌で有名になった八雲神社の
ある緑町に住んでいました。

いずれはその辺にも行く予定になっていますが、先週は去年、国宝に指定されて話題になった「
鑁阿寺」(功木には大日様という呼称の方が馴染みが深いのですが)に行ってきました。

緑町に住んでいた幼少期には幼稚園の遠足をはじめ春と秋のお祭りや2月の年越し行列まで本当に
楽しい思い出がいっぱい詰まった場所です。

太鼓橋を渡って境内へ入るとまるでタイムスリップしたような感じがして、センチメンタルな感情
に襲われてしまいました。

写真撮影のことは忘れてそのまま感傷的な気分に浸っていたかったのですが、心にムチを打って何
とか所期の目的を達することができました。

去年国宝に指定された本堂などの文化財的な価値や歴史的意義などはもちろん子供の頃は知る由も
無かったのですが、今から思えば功木は何と贅沢な環境で育ったものかと思いました。

それと同時に思ったのは功木が子供の頃に感じていた地域共同体としての一体感は現在では完全に
崩壊してしまっているということです。

それを社会の近代化及び機能的分化の帰結として是と取るか否かは人によって様々だと思いますが
、これからの人口減少、少子高齢化時代における「成熟社会」においてはどうでしょうか?

かつて我々の社会が持っていた、地域としての一体感をどうやったら取り戻せるのか?

ことによれば、我々は本当はその答えを知っているのかもしれません。功木はそんな気がします。

ただしそれを実行に移すにはリスクが伴うので、知らないふりをしているのかもしれません。

功木の意識は「鑁阿寺」を後にすると感傷からいつもの自省の念へと移ろいで行きました。

そして最後はIDEA_MEN写真をどうするかという現実的な意識へと帰還を果たしました。

Schluss fur heute!


 







2014/05/22 21:55:00|その他
宇宙における哲学の地位について
皆さん、こんにちはIDEA_MENこと功木マキオです。「足利学校再建」と「哲学」の新しい可能
性に向けて突き進んでいます。

既にお気付きの読者の方もいるかも知れませんが、毎回ブログに掲載されている「IDEA_MEN写
真」の「両毛哲学紀行シリーズ(足利編)」が始まりました。足利市の名所、旧跡、文化財など
をめぐって今まで誰も見たこともない独創的な視点から作品を創って参りたいと思っています。

さて、それでは本日の本題に入りたいと思います。

ドイツと言えば世界的に見ても哲学の王国の一つでありますが、そのドイツの哲学の中で好きな
作品を挙げてくれと言われれば功木は躊躇なくこの作品を上げます。それはマックス・シェーラ
ーの「宇宙における人間の地位」という作品です。

M・シェーラーと言えばニーチェやハイデッガーほど有名ではないですが、フッサールが始めた「
現象学運動」の中では専門家にナンバー2に挙げられる程の重要人物でかつ天才の一人であります


彼はいわゆる「哲学的人間学」という、実証的な自然科学的な知識が幅を利かせてきた20世紀初
頭において「人間とは何か?」という根本的な問いを人間の超越という面から定義していく運動を
開始しました。

その影響力の強い一連の著作の中であってコアな哲学ファンに圧倒的な人気を誇るのが、「宇宙に
おける人間の地位」です。

個人的な感想を述べさせてもらえば、功木が一時期哲学をやる意味を求めて、魂の彷徨に陥った時
期にこの作品と出会いました。読み終わると、それまでのもやもやした気持ちが一気に晴れて人間
や哲学の素晴らしさが新たな新鮮味を帯びて感じられてきたのです。
そしてそれを契機にしてより深いレベルでの学問研究へ突き進んで行ったのです。

その意味でもこの作品は非常に思い入れの強い作品です。なので客観的な評価は難しい面がありま
す。

例えば映画で言えば、昔ジュゼッペ・トルナトーレ監督の「ニュー・シネマパラダイス」という作
品がありました。あの作品のように大甘で多分に自己愛的なところがある作品であると言えるかも
しれません。

ただ功木は「何の為に哲学をやるの?」と自問した時に、真っ先に参照するのはやはり、この作品
である気がします。

それは、その答えが「哲学をやるのは功木が人間だから」というシンプルな答えに集れんされるか
らに他ならないからです。

Schluss fur heute!