皆さん、こんにちは。功木です。連日鬱陶しい梅雨の天気が続いていますが、如何お過ごしですか ?例年の状況から考えれば、今が梅雨の真ん中あたりで一番つらい時期だと思います。7月になれ ば梅雨明けの時期も見えてきそうなので、もう少しの辛抱です。頑張りましょう。
さて夏と言えば、花火大会が付き物ですね。取り分け足利市民にとっては単なる夏の風物詩を越え て市民的なアイデンティティーを形成する心のシンボルと言って良いでしょう。
そこで夏が近付きつつある今、IDEA_MEN写真は花火(打ち上げ)に挑戦してみました。 子供の頃から足利の花火大会を見てきた功木としては、一度は取り上げたいテーマだったので、今 回念願が叶って感無量です。
ここから本日の本題に入ります。前回の記事に書いたようにIDEA_MEN写真のAとBの違い についてです。
基本的に全てのIDEA_MEN写真には功木マキオが登場しています。どアップであろうが点景 としてであろうが、とにかく功木マキオ=IDEA_MENが写っているのがIDEA_MEN写真の 絶対条件です。
その上で、Aというのはパース=ギブソン体系の哲学による「直接知覚論的」認識を写真として「 直接的」に表現したものです。具体的には写真上に写っている功木の視線と写真を見ている鑑賞者 の視線とを同一化させて「主観=客観」の認知的構図ではなくて「主観=主観」の構図を作り出し ています。それによって「所与の神話」というドグマを唾棄することを目指しています。
それに対してBというのは「直接知覚論的」認識を写真の中に写っている功木マキオという想像上 のフィルターを通して表現したものです。
理屈が分かっていない方から見ると、ただのポートレート写真に見えるかもしれませんが、実は明 確な思想性を持った確たる方法論的認識に基づいて撮られています。
それと注意してもらいたいのは、先に書いたような厳密な分類から漏れてしまう写真もあるという ことです。
さらに、このブログ「マキオロジー・ザ・バイオロジー」には、極まれにただの普通のポートレー トも掲載されることもあるので、それらとの見極めも注意が必要です。
以上がIDEA_MEN写真のAとBの違いですが、如何でしたか?写真が社会から求められる役 割については芸術的なものとジャーナリスティックなものがあると思われますが、歴史的なターニ ングポイントを向かえている足利市においては両方同時に求められているのだと思います。
未来を切り開く「象徴性」と時代の証言者たる「記録性」それらを兼ね備えているものこそ「写 真」であるべきです。
功木はその昔、多額のお金をかけて最新式の一眼レフカメラやレンズをそろえた時期がありました が、それらで撮ったのは千円で買える使い捨てカメラでも取れるようなものでした。
写真家になった友人の影響もあり、カメラに凝ってみたものの本当の意味で写真の素晴らしさを、 その当時は理解していなかったのだと思います。
しかし現在の功木は違います。
デジタル映像機器の驚異的な進歩は人間の想像力を上回るところまで来ています。逆に人間の想像 力の方が映像のコンテンツに合わせなければならない状態にまでなっています。
その様な本末転倒の状態から如何にすればヒューマニズム(人間性)を回復できるのか?
功木は「写真」というシンプルな芸術に21世紀という時代が求めているのは、まさにこの部分な のだと思います。
最後に一言。「映像のまち」を標榜する足利市ですが、当然その「映像」という概念には「写真」 も含まれるということです。少なくとも我々の認識のなかではそうなのですが、その辺はもっと考 慮されるべきだと思います。如何でしょうか? Schluss fur heute! |