哲学研究者の功木マキオは普段どんな本を読んで、何を考えているのか?自身の研究テーマである足利学校改造論からプライベートまで。情熱を持って書かせてもらいます。
 
2014/07/22 15:07:24|その他
さあ、夏決戦だ!
子供たちの夏休みも始まり、いよいよ夏本番に入りましたね。功木の夏も同時にスタートとはいか
なくて世間一般の流れとは少し違います。若干のラグがあります。

でも気持ちの上では確かに夏モードに突入しました。

夏の決戦を目前に控えて色々と思うところがあります。そのせいか夜寝ていると夢の中に人生の中
で宙吊りになったまま放置されていた問題が顔を覗かせてきます。

昔親しくしていたのに、ある時から疎遠になってしまった友人の顔や、仕事で大失態を演じてしま
い思い出すのも辛い記憶など様々なことが夢に出てきます。

それらの普段は抑圧されて無意識の領域に押しやられていたものが功木の夢枕に現れて何やらうっ
たえかけてくるのです。

確かに歴史と対決するのも重要なのですが、功木個人としてはそれらに付随する人生において未解
決な問題についても対決する必要に迫られているのかもしれません。

とにかく全ての人々にとって素晴らしい夏はスタートしたばかりです。IDEA_MEN功木の夏
ももう少しで始まります。 See you soon !!!

Schluss fur heute!







2014/07/19 12:32:05|その他
夏が近いのでグラサン掛けてみました
夏が近いのでグラサン掛けてみました

梅雨明けが平年より遅れていますが、恐らく来週には明けるでしょう。
本格的な夏の訪れと共に功木の歴史対決の夏もやってきます。

備えあれば憂いなし。

先日、史跡足利学校で「学校様トリロジー」の最重要部分のロケハンをやってきました。
功木が訪れたのは平日の夕方、閉館まで1時間を切っていました。他には二、三十人のツアー客が
いて、中国語なまりの日本語でのツアーガイドの解説に熱心に耳を傾けていました。

功木はそのツアー客が写真を撮りたい場所から移動するのを見計らって、サンプルの写真を200
枚ほど撮影してきました。

それらの中からピックアップして実際に作品に使うかはまだ分かりません。ただイメージとしては
昔見た、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督の映画作品の中の強烈な映像イメージがあって、その影
響が色濃く出ていると思います。

作品がまだ完成していないのに、あれこれ説明してもピンとこないと思うので、あまり深入りしま
せんが一言で表現すれば作品を見た人の「脳に突き刺さる」ような作品を目指しているのです。

大急ぎでロケハンを終えると最後に史跡足利学校の中にある図書館に足を運んでみました。

功木が小学生だった頃は夏休みになると足利学校の図書館に行って午後の時間を過ごすのが日課の
ようになっていました。

ただ当時の功木はSF小説に凝っていたのですが、その手の本はあまりおいてなかった記憶があり
ます。確か足利市内の近辺の本屋で自分の読みたい本を買って、それを持ち込んで読んだ記憶があ
ります。

個人史的な意味でですが確かにそこに「歴史」はありました。子供の時に埋めたタイムカプセルを
開けてみて過去の自分に再会したような懐かしさがありました。

功木にとって足利学校は歴史への思索の原点にある場所だと思います。そのことを再認識させられ
ました。

ただ固定化された歴史から創造する歴史への歴史シフトを標榜する功木としては歴史とは常に二重
化されているという点を指摘したいと思います。

歴史を作る人とそれを評価し受容する人がいるように、個人においても歴史を作る能動的な側面と
過去の行為を反省し評価する受動的な側面があります。

我々が言う「歴史意識」とはその二つの側面の超越論的総合なのです。つまり歴史とは年号等に代
表される出来事の記述でありと同時に我々の認識が作り出す主観でもあるのです。

我々はこの二つの側面を切り離して論じることは原理的に不可能であるという立場をとりますが、
もしそれを強引に行おうとすれば結局、歴史における認識論的問題となり純粋に哲学上の問題に
逢着してしまうのです。

今までマキオロジーの中では「存在論」や「認識論」にウェイトを置いて研究してきましたが、
ここに来てにわかに「歴史とは何か?」を扱う「歴史哲学」の比重が大きくなってきています。

そのことは足利市の歴史自体がようやく動き始めたことを反映しているのかもしれません。

暑い夏がもうすぐそこに来ていますが、一旦来てしまうと過ぎ去るのも早いものです。

これから短い夏を最高の充実度を持って過ごすために、「疾走感」を持って行動することを念頭に
置いて夏を待ち受けたいと思います。

それでは、また近いうちに。

Schluss fur heute!
 







2014/07/14 23:50:00|その他
敵は本能寺にあり 超シネ論考#6
敵は本能寺にあり

映画は本質的に芸術作品であり、実存的側面ではなく形相的側面から評価されるべきである。

何故そうなのかを理解していただく為には次のことを考えていただきたいのです。。

現在のコンピューターや映像の技術のレベルでも完全に人の手を介さなくてもある一定のレベル
の映像作品はできてしまうと言うことです。

これが何を意味するのかを考えることはとても重要なことです。

我々は映画をCRITIKAL(批判的)に見る目を養わないとコンピューターの作った映画と人間の作っ
た作品との違いが分からなくなってしまいます。真贋を見分ける鑑賞能力つまり「リテラシー」の

能力を身に付け作品の質を吟味する際の参照枠を構築すること。

我々が「使命感を持って哲学」を広めている理由の一つがここにあります。

そして、その参照枠とは地域に歴史的、文化的に根ざした教育機関であり形而上学的価値であると
ころのシンボルすなわち「学校様」なのです。

既にご存知かとは思いますが、数年前からヒューマニズムとコンピューターとの全面対決が
始まっています。人間の実存論的価値が危殆の危機に瀕しているのです。

機械論的な無意味な記号連鎖から「ヒューマニズム(人間性)を擁護すること。その為の予防線を
張る意味もあります。

我々がそのことにあまりにも無関心でいるならば、一握りの権力者やコンピュータに支配されてし
まいかねないのです。

これが映画は映像表現でなくてはならないとはことの根拠なのです。

我々日本人の集合的無意識の古層としての足利学校と映画の認識能力との間には密接な繋がりがあ
ります。

映画とヒューマニズム、表象と思考など「足利学校再建」に向けて考えていかなくていかなくては
問題が山積しています。

つまり西洋哲学史上の重要問題はインターネット時代が到来した今だからこそゼロベースでの
見直しが必要だと言うことです。

技術万能主義の幻想は捨てるべきです。我々は時代に即した新しい「哲学」を創らなくてはならな
いのです。

地域のメディアにおいてもステレオタイプ化した既存のメディアに頼るのではなくて、メディアご
と新しいモノを創造することが求められているのです。

そして実はここでもメディアに流される情報の質を吟味すべきなのです。
ソーシャルメディアを介して流れてくる情報をそのまま鵜呑みにして他人に流すこと。そのプロセ
スにおいて人間の批判能力は発揮されているのか?

功木はソーシャルメディア自体を全面否定はしませんが、かと言って全てを受け入れる気にもなり
ません。

人間本性に基づいた新しい象徴秩序の形成が求められています。

もちろんに人間は生きていくこと自体が日々闘争なのですが、戦う相手を間違えてはいけないのです。

一度きりの人生を有意義に過ごすためにもここはいっちょ立ち止まって人生の再点検をすべき時ではないでしょうか?

我々は人類の21世紀にとって最重要課題が「足利学校再建」であるとの認識に立って学問の研究
を行っておりますがそれは将来勝義の意味においてAI(人工知能)と人類との戦いにおいてヒュ
ーマニズムの牙城となり最後の砦となるからなのです。

我々は現在のIT技術の急激な進歩に伴う社会の変化の本質を見抜かなくてはなりません。
そして戦う相手を間違えてはいけないのです。

戦国時代の武将、明智光秀の言葉を借りれば、まさに「敵は本能寺にあり」なのです。

Schluss fur heute!

 







2014/07/12 12:16:05|その他
住み開き
「言葉は存在の住処である」 by Martin Heidegger







2014/07/10 21:35:20|その他
歴史の大局
足利学校を考える時には歴史の大局に立たなければならない

その意味は我々が足利学校を考える時には「足利学校そのものを自身の歴史意識」として考えなけ
ればならないと言うことです。

これは何故ならば、足利学校のノエシス的な意味の磁場に捉えられていますが、普段はそれを意識
はしていないからです。

それが何故問題なのかと言えば、本来ならば足利学校と足利市民は「包み、包まれる」または「
表現し、表現される」といったお互いに互恵的な生き生きした関係にあるべきなのに。それが史跡
となることによって、固定化されてしまい、その結果意味が生成されて文化が生成されるサイクル
が阻害されているからです。

これは功木が「平成ディヴィジョロジーの時代」と命名した現在の文化的な状況においては、致命
的な足枷になり足利市の発展の障壁になることのみならずグローバルな文化世界の損失となるでし
ょう。

ハイデッガーの思想の中に「人間は歴史的な存在である」という考え方が出てきますが、まさに
人間の研究とは直接的な意味で「歴史」の研究に他ならないのです。

我々の責務は「歴史的な存在者である」人間と「存在論的な歴史」である足利学校とに真正面から
向き合うということです。ここからが全ての始まりなのです。

台風の影響なのか、うまく考えがまとまらなくてまだ書きかけなのですが、とりあえずアップしま
す。後日、残りを書き足します。

中途半端で申し訳ありませんが、Schluss fur heute!