哲学研究者の功木マキオは普段どんな本を読んで、何を考えているのか?自身の研究テーマである足利学校改造論からプライベートまで。情熱を持って書かせてもらいます。
 
2014/08/27 23:35:03|その他
「カントのポーズ」のレクチャーを受けるハム子
皆さん、こんにちは功木です。今日は重大発表があります。

功木家の養女である「ジャンガリアンのハム子」は父親である功木マキオの意志を継いで二代目・
IDEA_MENを目指すことになりました。初代IDEA_MENの功木マキオとしてはハム子
が太田のイオンの中のペットショップで売られているのを見て、そのフォースの強さに驚愕させら
れたのが最初の出会いでした。

その後、功木家の養女として迎えられて約2年半の間、普通にハムスターの孝行娘として過ごしそ
の生涯を閉じました。

功木はハム子のあまりの可愛さにIDEA_MENとして育てることが出来ませんでした。溺愛し
過ぎてしまったのです。

その事を功木はずっと後悔してきました。「もう一度ハム子に会わせて下さい」とハム子が亡くな
って以来、神様にお願いしてきました。

しかし、足利市の100回目の夏の花火大会において奇跡は起きました。

ハム子のフォースの強さの為か功木の願いが神様に通じたのか理由はまだ不明なのですが、真夏の
夜空にハム・スター(STAR)として鮮やかに蘇ったのです。

冥界でのハム子は人気者で市民の為に「Ham-Tan43」というアイドル・グループを結成し
て、そのセンターをやっているそうです。

功木が知らない間に、そんなに大きな存在になっていたとは・・・、恐るべし功木ハム子。

でも孝行娘で知られるハム子は功木のことも忘れていませんでした。

父親である功木のIDEA_MENとしての重要なMissionを知り、自ら進んで応援を買っ
て出てくれたのです。

さらには弟子入りしてIDEA_MENとして二代目を目指したいと言ってくれました。

これに対して功木は最初「IDEA_MENの仕事は女性には無理だ」と言って固辞しましたが、
娘の父を想うやさしい気持ちにほだされて、最後は了承してしまいました。

これで良かったのか?功木にはまだ確信は持てませんが、ハム子はイオンで出合った時のFirst
Impressionから何か特別な運を持っているハムスターだという気がしてなりません。

その可能性に賭けてみるのも一種の天命なのかなぁと思っています。

本人もその気になってしまっていて、インドにヨガの勉強に行きたいと言っています。

でもその前に足利学校の初代庠主の中村元先生の著作集を読破してからにしなさい。とアドバイス
しておきました。

これからの「功木ハム子」の頑張りに期待したいですね。

Schluss fur heute!







2014/08/24 22:34:18|その他
もうすぐ秋、ハムたちも住み開き
この夏の1000年花火と共によみがえった功木家の養女=功木ハム子たちの強力な援護射撃のお
蔭で歴史対決を圧倒的優位に戦っていている功木マキオです。

孝行娘たちの八面六臂の働きもあり、勝利は目前に迫っていますが、完全勝利を目指してこの
まま歴史対決「秋の陣」へ突入したいと思います。

ある意味で秋はハムスター達の季節であります。というのはドイツ語の辞書でハムスター
(Hamster)を引くと(買いだめをする人)と出ています。

人間の心を扱う哲学や心理学の本場、ドイツにおいてハムスターという動物がいかにポピュラーな
存在であるかをうかがい知ることが出来ます。

実際にハムスターをペットショップで見たり、自宅で飼ったことのある人ならご存知でしょうが、
ハムスターは食べたものを、ほっぺたにためることが出来ます。

目いっぱいにためると顔の部分が円盤のようになってしまいます。その姿が非常にユーモラスなの
ですが、野生のハムスターにとって見れば少ない食べ物をどうやって効率よく巣に運ぶかの生きる
知恵でありかつ進化論的な適応の一種なのかもしれません。

一心不乱に与えられた餌をほっぺたに詰め込む姿をハムスターの見て、恐らくドイツの人たちはあ
る種の感動を覚えたのに違いありません。

自分達も哲学や心理学の知識をハムスター達のように、後先考えずに買いだめして後でゆっくり咀
嚼しようではないか。

それこそが学問の歴史を作ってきたのだし、これからの歴史を前進させる原動力になるのだと。

そのことを再認識させてくれたこの小さな愛すべき動物=ハムスターに対して尊敬と愛着の念を表
そうとして辞書に取り上げたのだと思います。

まだ日本ではハムスターというと単なるペットというイメージが強いですが、実は人間の失われた
能力の研究する分野である超心理学の世界では最重要動物の一つと位置付けられています。

そして、更には哲学や心理学を絡めた形での文化=歴史的な研究も進んでおり、我々に「ハムスタ
ーの時代」を予感させてくれるのに十分な状況となっています。

暑かった夏ももうすぐ終わりハムスター達の大好きな秋がやってきます。

功木もハム達にあやかって思いっきり哲学をハムスター(買いだめ)したいと思います。

Schluss fur heute!

 







2014/08/22 15:36:35|その他
孝行娘の帰還
功木は昨日の夜、残暑厳しい中寝ていて、こんな夢を見ました。







2014/08/19 23:32:23|その他
Slow but Steady
足利市民である功木にとって群馬県は時々違う県にカテゴライズされている事が不条理に思えるほ
ど近い存在です。ある意味で群馬県と栃木県は喜びも悲しみも共有している間柄と言えるかもしれ
ません。

先日、インターネットを見ていたら群馬県に関するあるサイトを見て功木は胸が張り裂けそうにな
りました。隣の県のことなのだからと見てみぬふりをすることも可能なのですが、何故かそうする
ことが出来ない自分がいます。これはネット社会の「共感」のなせるワザなのでしょうか?

という訳で本日は来るべき「道州制」に想いを馳せたいと思います。

現在まで道州制に関しては色々な議論がなされていますが、功木としては道州制導入の議論は「足
利学校再建」の議論とセットで論じられる問題であるという認識に立っています。

というのは現在までの主に政治家の先生方の議論は道州制を制度論的な視点からのみ捉えていて、
肝心の住民の「生」が等閑視されているからです。

道州制導入の前提条件として「生」に関するある価値観がシェアされていなくてはなりません。

そうでなくては、もし仮に国からトップダウン式に道州制が導入されたとしても、うまく行くでし
ょうか?

まとまり無く反目し合っていたのでは、「何の為の道州制なのか?」という事になりかねません。

国は制度は作れても、住民の生活に密着した公共の議論の場は作れません。これに関しては地域の
住民からボトムアップ式に形成されるしかないのです。

ネットの普及によりソーシャル・ネットワークなどの技術的な枠組みは実現していますが、肝心の
シェアされるべき価値観に関する議論が一番遅れている感じがします。

何故そうなのかは、我々の考えでは明快です。

本来、それは地域に密着した教育機関の役割であるのにも関わらず、それらが「脱=歴史化」され
て、ブラックボックス化されているからなのです。

本来、地域住民にとって一番大事なことを話し合うのが地域の教育機関を中心とした「地域公共
圏」の役割であります。そしてその最新バージョンと呼ぶべき「メディア公共圏」においても求め
られている機能は同様であります。

その意味で歴史的に見て我が「足利学校」は真に新しい時代の「先駆け」になり「モデルケース」
となるべき存在なのです。

よって、もし道州制導入が歴史の必然ならば、同時に「足利学校再建」も歴史的必然なのです。

Schluss fur heute!







2014/08/16 18:18:22|その他
「夏祭り」のあとは「哲学祭り」で
今年の足利の花火はかなり盛り上がったようですね。でのその分引けも早くてここ数日の涼しさと
も相俟ってまだ8月の中旬なのに急に秋の足音が聞こえてきた感じがします。

秋と言えば去年も書きましたが、「哲学」です。その秋の涼しい環境を神様が歴史的な夏に前倒し
でもってきてくれた気がします。

要は夏が延長されて秋とくっ付き、無期限の延長戦に突入する可能性が出てきたということです。

現在の状況は祭りにたとえて言うならば、「夏祭り」が終わって秋までの「哲学祭り」が始まった
と表現できるでしょう。

何故、歴史的な戦いを繰り広げている功木が「祭り」などという言葉を使うかといえば、理由は二
つあります。

一つは極度に精神の集中を要する本丸の部分では既に戦いを終えているからです。
その意味では夏に入る前の強大なプレッシャーからは多少は解放されています。そして、ある程度
自分の中では戦況に関する楽観論が出てきているためです。

もう一つの理由は次のようなものです。

21世紀は「集合的想像力」の時代であると言われていますが、それは古代ギリシャのアリストテ
レスに端を発しアラビア経由でヨーロッパやアメリカに広まっていた「哲学」の再生物語でもあり
ます。

現代のインターネットやデジタル技術と結びついた古代の「知恵」は全く新しい文化的創造物へと
進化してきています。

現在の功木の戦いはこの歴史的な流れに棹さすものであり、真に創造的なものなのです。

この素晴らしい現象を「祭り」と呼ばずどう表現すればよいのでしょうか?

「夏祭り」は夏が終わればまた来年を待たなくてはいけませんが、夏が終わっても終わらない祭り
があります。それが「哲学祭り」なのです。

Schluss fur heute!