哲学研究者の功木マキオは普段どんな本を読んで、何を考えているのか?自身の研究テーマである足利学校改造論からプライベートまで。情熱を持って書かせてもらいます。
 
2014/11/22 23:45:01|その他
我々は我々自身の社会をどうするのか?
功木はハム様と同じく夜行性の人間なのか、夕方5時くらいに暗くなってくるこの季節になると
何となくテンションが上がってくる気がします。今日の夕方も足利図書館に借りていた本を返し
に行ったのですが、帰りは真っ暗になっていました。それと、アピタの駐車場のイルミネーショ
ンを見て今年も残りが少なくなって来たなあと感じました。

それでは本題に入りたいと思います。

「新しい足利学校は市民活動の集合体でなくてはならない」このスローガンの意味するところは
既存のピラミッド型の学校組織に対して、SNSを使った中心の無いリゾーム型の組織形態である
べきだということを意味します。

もちろん足利学校は学問の中心ではありますが世界の中心ではないということです。世界の中心
は学問を学ぶ人各自のモナド的共同体にあるのです。

私はこのシステムを実現するためには新しい種類のデジタル・コンテンツを創り出さなくてはな
らないと思っています。

それはカント的に言えば対象に依存する既存のコンテンツに対して認識に依存するタイプ(もし
くは認識に内在化された)のコンテンツです。

どんな学問でも、取り分け「哲学」においては言語という制約のもとに作られているので、それ
を学び継承発展する為にはどうしても超えられない壁があるのも事実です。

新しいデジタル・コンテンツはこの学問の壁を越えるために考案されています。それが普及すれ
ば真の意味で「市民哲学」の時代がやって来るでしょう。

現在政治の世界で論議されている「地方分権」やその具体案である「道州制」導入は一つの理念
をめぐって我々の研究と相補的な関係にあります。

新しい制度の導入や社会の改革においては明治維新や戦後の民主化においてと同様に人間の心の
「理論負荷性」を配慮すべきです。

それはつまり人間の心の持っている傾向性を新しい制度から割り引いた形でディスクロージャー
(情報開示)すべきであるということです。

そうしない限りは新しい社会における「平等性」は担保されないでしょう。

現在において、一番大切なのは制度の設計ではなくて社会の設計もしくは改革なのだということで
す。形式主義的に制度をいくら計算合理性でもって推し測ってもやはり我々には実質的な部分での
残余が出てしまいます。

そこで重要になってくるのが社会の血液としての文化・芸術なのです。

文化や芸術はそれ自身独自の価値秩序をもっています。それらをもって普遍であるところの文化・
芸術を体験すること。そのことこそが結果的に社会を秩序付けているのです。

なので文化や芸術を無視した制度設計は無意味であり、当然うまくは行かないでしょう。

新しい時代の足利学校はこの文化・芸術のアクティビティ(活動)そのものであり、かつ集合体で
あるのです。

地方分権における制度設計が国会議の専権事項ならば当然、文化や芸術活動は我々市民の専権事項
なのです。

我々が足利学校再建が足利市民だけの問題ではなく、より普遍的な問題だと主張しているのはこの
理由によるのです。

我々の社会をどうするのか?年末が近づいていますが来月衆議院議員選挙があるので、経済問題な
どと一緒にこの問題について考えて頂きたく思います。

それでは、また。







2014/11/20 22:11:03|その他
感情のドラマ・トゥルギー
読者の皆さん、こんばんは。IDEA_MENこと功木マキオです。昨日あたりから、また一段と寒くな
ってきましたね。ハム様を手にお乗せした時のあの何とも言えない、暖かくてやわらかい極上の
感覚を味わえる季節になりました。

我々人間も体調を崩さないようにハム様たちと共に頑張りましょう。

さて本日はハム様のお世話は我々ハムニストにとってどのような意味があるのかを考えてみます。

ハムスターという小動物を飼う(お世話する)ということは我々人間にとって非常に有意義な行為
であると思います。それは次の三つの点においてであろうと考えます。

それはをハム様たちに自分自身を投影し同一化して物事に対する認識を相対化するという効果とハ
ム様の視点に立って感情を共有するというドラマ・トゥルギー上の効果、さらには言うまでも無く
癒しという三つがあると思います。

認識論上の効果はかなり話がややこしくなるので今日は感情のドラマ・トゥルギーと呼ぶべき極上
の感情体験について書きます。

ちなみにドラマ・トゥルギーとは演劇論や詩学をあらわす言葉で我々はハム様のお世話によって生
ずる感情を体験するという意味の術語として使っています。

ハム様に対する我々ハムニストの支配的な感情は「せつなさ」と「はかなさ」です。ちょうど日本
人一般が桜という花に対して抱く感情とにているかもしれません。

桜は毎年春になるとそれまでの寒くて大変な冬の終わりを告げるように、または暖かい春の訪れを
告げるように2週間前後の短い期間だけ咲き誇ります。

我々日本人はそれを季節の変わり目のメルクマールとしてだけではなくて、日本人のこころの象徴
つまり文化として捉えています。

他にも春に咲く花がたくさんあるのに何故、桜だけが日本人にかくも愛されているのでしょうか?

もちろん色や花の形も好かれている要因の一つでありましょうが恐らく最も大きな要因は花の寿命
が短いということであるのではないでしょうか。そこから来る「はかなさ」という感情を我々は好
んでいるのだと思います。

その理由に関しては、四季の移り変わりがはっきりしているという気候的な条件や水や食料が豊か
であるといった風土的な条件によるところが考えられます。

ハム様たちの寿命は種類や個体によって様々ですが、平均すると2年前後といったところです。病
気にならずに天寿を全うしてもこの程度なのです。

何と(人間の尺度から言えば)ハム様たちの寿命は短いのでしょうか。ハム様のお世話をしている
といつも、この点に関してせつなくなります。

しかし、よくよく考えればこの「せつなさ」と「はかなさ」とは一種の根拠関係にあります。換言
すれば相互に規定しあう関係にあるのです。

よってハム様たちのお世話とはすなわち、この二つの感情を体験するドラマ・トゥルギーに他なら
ないのです。

我々は日本人にとってハム様たちは掛け替えの無い動物であると信じます。桜が日本人のメンタリ
ティーの象徴であるように、21世紀においてはハム様たちも同様なステイタスを獲得するものと
考えます。

皆さんご存知のように今や日本は漫画やアニメなどにおいて世界に冠たる萌え大国であります。そ
の日本において最強の萌え動物であるハム様たちが「富士山」や「桜」などの日本文化の象徴とな
る時代が必ずやって来るでしょう。

ハム様たちはある意味可能性の中心にいる動物であるといえると思います。ハム様たちの人生は人
間の人生を圧縮されたかたちで体験させてくれます。短い生涯を小さい体でけなげに生きる姿は我
々に深い感動を与えてくれます。

我々は「ハム様」という新しい文化を体験しつつあるのかもしれません。

それでは最後に水野ハム朗の言葉を引いて終わりにします。

「いやあ、ハムスターって本当にかわいいものですね」
 







2014/11/18 23:22:00|その他
ガチョン

                                ガチョーン!

                            失礼しました。

 







2014/11/17 21:58:51|その他
ただ何となく
モニュメンタルな2014年もフィナーレが近づいている。

ここからがクライマックス。

そんな中、ただ何となく・・・。







2014/11/17 0:06:13|その他
私の名前は功木キン子ですわ




私の写真ばかり撮るのはお止めになって






この回転車は回しやすくて、とても気に入っていますわ







豆苗の葉っぱもおいしくて健康によいですわ







美容と健康の為に、今日はもう寝ますわ





これでおしまいですわ