功木はハム様と同じく夜行性の人間なのか、夕方5時くらいに暗くなってくるこの季節になると 何となくテンションが上がってくる気がします。今日の夕方も足利図書館に借りていた本を返し に行ったのですが、帰りは真っ暗になっていました。それと、アピタの駐車場のイルミネーショ ンを見て今年も残りが少なくなって来たなあと感じました。
それでは本題に入りたいと思います。
「新しい足利学校は市民活動の集合体でなくてはならない」このスローガンの意味するところは 既存のピラミッド型の学校組織に対して、SNSを使った中心の無いリゾーム型の組織形態である べきだということを意味します。
もちろん足利学校は学問の中心ではありますが世界の中心ではないということです。世界の中心 は学問を学ぶ人各自のモナド的共同体にあるのです。
私はこのシステムを実現するためには新しい種類のデジタル・コンテンツを創り出さなくてはな らないと思っています。
それはカント的に言えば対象に依存する既存のコンテンツに対して認識に依存するタイプ(もし くは認識に内在化された)のコンテンツです。
どんな学問でも、取り分け「哲学」においては言語という制約のもとに作られているので、それ を学び継承発展する為にはどうしても超えられない壁があるのも事実です。
新しいデジタル・コンテンツはこの学問の壁を越えるために考案されています。それが普及すれ ば真の意味で「市民哲学」の時代がやって来るでしょう。
現在政治の世界で論議されている「地方分権」やその具体案である「道州制」導入は一つの理念 をめぐって我々の研究と相補的な関係にあります。
新しい制度の導入や社会の改革においては明治維新や戦後の民主化においてと同様に人間の心の 「理論負荷性」を配慮すべきです。
それはつまり人間の心の持っている傾向性を新しい制度から割り引いた形でディスクロージャー (情報開示)すべきであるということです。
そうしない限りは新しい社会における「平等性」は担保されないでしょう。
現在において、一番大切なのは制度の設計ではなくて社会の設計もしくは改革なのだということで す。形式主義的に制度をいくら計算合理性でもって推し測ってもやはり我々には実質的な部分での 残余が出てしまいます。
そこで重要になってくるのが社会の血液としての文化・芸術なのです。
文化や芸術はそれ自身独自の価値秩序をもっています。それらをもって普遍であるところの文化・ 芸術を体験すること。そのことこそが結果的に社会を秩序付けているのです。
なので文化や芸術を無視した制度設計は無意味であり、当然うまくは行かないでしょう。
新しい時代の足利学校はこの文化・芸術のアクティビティ(活動)そのものであり、かつ集合体で あるのです。
地方分権における制度設計が国会議の専権事項ならば当然、文化や芸術活動は我々市民の専権事項 なのです。
我々が足利学校再建が足利市民だけの問題ではなく、より普遍的な問題だと主張しているのはこの 理由によるのです。
我々の社会をどうするのか?年末が近づいていますが来月衆議院議員選挙があるので、経済問題な どと一緒にこの問題について考えて頂きたく思います。
それでは、また。 |