哲学研究者の功木マキオは普段どんな本を読んで、何を考えているのか?自身の研究テーマである足利学校改造論からプライベートまで。情熱を持って書かせてもらいます。
 
2014/12/23 20:50:33|その他
はむはむサンタと一緒に Merry Christmas !!!

                あれっ?うちのシロりんがあんなところに・・・!








2014/12/22 23:22:30|その他
ラスト・スパート
今年もクリスマスが明後日にやって来ますが、クリスマスってある一定の年齢になった人にとって
は逆説を含んでいます。

クリスマスになると多くの人が幸せであると言いますが、実はよくよく考えてみると最高に幸せな
状態であればクリスマスのことなど眼中に無くなると思います。

では最高に幸せな状態とは何か?と言えば仕事を通した自己実現がなされた状態ではないでしょう
か。

つまりクリスマスのことなど忘れてしまうぐらいに仕事に没頭しているか、満足の行く仕事を終え
て充実感に浸っているか。そのどちらかでしょう。

多くのクリスマスを心待ちにしている若い方々には、水を差すようで申し訳ないですが、現在の日
本のクリスマスはハイデッガーという哲学者の学説にある「存在忘却」という状態にあると言わざ
るを得ません。

その状態から脱却するには「意志」を強く持つことです。そうすれば自ずとクリスマス本来の姿が
現れるでしょう。

実は主知主義的な観点から言えば、ここにこそ真の幸せを築くべき地平があるのです。

功木は日本のクリスマスに内在化されている逆説に存在意義があるとすれば、人々がそれが逆説で
あることに気付けば幸せな状態への第一歩を踏み出せるという点にあると思っています。

それでは、皆さん。今年もクリスマスへ向けてラスト・スパートに入りましょう。

See You Next Article!
 







2014/12/21 19:03:18|その他
寒い冬であります
今年の冬はとても寒いですが、「何故人間がハム様たちを見るとホッコリするのか」を研究するに
は打って付けの冬であります。

人間界を代表して:Hamuo Mizuno From Ashikaga City Japan
 







2014/12/20 22:14:06|その他
まちおこし零年へ向けて
最近は「〜でまちおこし」とか「まちおこしのアイデア募集」などという文言をよく目にしますが
、要はおらがまちが元気が無いから何らかの手段を取って元気を取り戻そうといことなのでしょう


それらの内容を精査してみると企業誘致で働き口を増やそうという話とイベントを仕組んで文化的
に盛り上げようという話の二つに分類されると思います。

双方の方々の主張は至極ごもっともで、それなりの正当性があるのでしょうがやはり何処か欠けて
いる、何かが足りないという感じは否めません。

何故そう感じるのかといえば、本来議論の正当性の根拠もしくは真理の基準となるべき公理系とし
ての「哲学」が内部崩壊し始めているのを目の当たりにしているからではないでしょうか。

皆さんご存知のように「哲学」は西洋のほとんど全ての学問の起源に位置しますが、その重要性に
もかかわらず現在は凋落の一途をたどっています。

否正確には現在はかつて「哲学」として一本化されていたものが科学や心理学や倫理学、美学など
に細分化されてしまい、本家がやせ細ってしまったと言うべきなのでしょう。

これは我々が取り組んでいる「哲学の人類の御用哲学化」という現象の一つの側面なのですが、そ
の結果として「哲学」という学問が、まちおこしに取り組んでいる方々に「アプリオリな総合的判
断」を与えられなくなっているのです。

「まちおこしには哲学が必要だ」といことは誰が考えても明らかなことだと思います。何故ならば
まちおこしの「まち」とはそこに住んでいる人から見たまちなので、その概念の中には必然的に「
カルチュラル・アイデンティ」が含まれるからです。

このことは逆に言えば「カルチュラル・アイデンティ」が無ければ「まち」という概念は成立しな
いということです。

哲学に詳しい方ならば如何にもカント的な論理の展開だと思われたかもしれませんが、つまり最初
に挙げた二つのまちおこしのやり方ではどちらも「カルチュラル・アイデンティ」に関するアプロ
ーチが抜け落ちてしまうのです。

結果として「まち」という何やら幽霊のような概念をめぐって延々とまちおこしの議論が繰り返さ
れるのです。

この無限ループのような非生産的なプロセスから脱却するには、やはり我々は思考の純化を行わな
ければならないと思います。

これは何らかの理由で原因と結果を取り違えてしまったが為に起きる認識論上の誤謬を、哲学操作
により本来の認識に戻す作業です。

ある意味で精神分析に似ているのですが、哲学の世界では使っている概念装置と目的が違います。

精神分析の場合は精神の病気の治療が目的ですが、哲学の場合は正常な人の思考を扱うのです。

ただ我々のように哲学を研究している立場から言わせてもらえれば、哲学の方が先にあって、それ
を精神分析は病人の治療の為に哲学的知識をマイナーチェンジして臨床行為に応用させたというの
が正確な見方だと思います。

この見方は当然それぞれの立場によって異論反論があるでしょうが、これはあくまで功木の考えで
あります。

とにもかくにも、「まちおこし」という作業には思考を純化して当たることが重要なのです。そし
てその態度をもって我々の「カルチュラル・アイデンティ(文化的同一性)」は何かを問うという
、この二段階の哲学操作が必要なのです。

最後に、よく質問される問いに答えて終わりたいと思います。

その質問とは「哲学とはどのような思考法を取る学問ですか?」というものです。

それに対する答えは次のようなものです。「哲学とはものごとの何故そうなのか?を問うのではな
くて、何故自分がそう思うのか?を問う学問である」そこに哲学的思考法の特徴があります。

それでは。See You Next Article!







2014/12/19 21:27:12|その他
街が華やぐ季節になりました
今年もクリスマスまで残り1週間を切って、街中もクリスマス・イルミネーションでとても華やい
でいます。

ハム様たちも、そんな人間界の浮かれムードに影響されて、とても元気になっています。

今夜もこの街のどこかでハム様たちは回転車を回し続けています。