以前からずっと書いているように功木は歴史への挑戦を続けていますが、それは具体的には「哲学 」という西洋においては2千数百年の歴史を持った学問を通してのことであります。
つまり、それは「哲学」をこれまでのアナログ的な文字だけの文化からイメージや図表なども使っ たコンピュータもしくはWEBベースのデジタル文化へシフトさせるという現在、全世界的な規模 で行われている「哲学のデジタル改革」の流れに棹をさすものであります。
IDEA_MEN:功木マキオの仕事の歴史的な価値はこの部分における極めて有効な方法論の開 発に成功したという点にあります。
それに関しては足利という学問における「ガラパゴス的環境」がプラスに働いた結果でもあるし、 功木の個人的な要因が絡んだ結果でもあるのです。
いずれにせよ「マキオロジー」という研究があまりにも時代に先んじていたが為になかなか同時代 の人々には理解してもらえなかったという面はあります。
しかし「哲学」という学問が本当に「知恵」に関する学問であるならば、この問題はいずれは解決 するものと思われます。
と言うのは、我々が到達した「知恵」が本当に最高のものであるならば、それは必然的に「真理」 であるからであります。
「真理」とは平成の世を生きている同時代人だけの為にあるのではなくて、これから先の後の世代 の人々の為にも存在しているのです。
それが時代を超越した「普遍」であるのかどうか?という問題は古代から哲学上の問題とされてい ていますが、やはりそれは各々の時代の人々がそれについて考え続けなくてはならないという意味 での「普遍」であるということではないでしょうか?
「時代を超えなければ哲学ではない」これはマキオロジーのスローガンの一つでありますが、この ことを現象学の言葉で言い換えると「イデア的でなければならない」ということであります。
さらに我々がよって立つ思想的な立場であるパース=ギブソン体系の中では「不変項である」と呼 ばれています。
「確かに我々は何かに到達した。しかし我々はそれが何であるかを知らない」1492年のコロン ブスのアメリカ大陸発見の時のように現代人はその意味を知らないのです。
我々はその意味の分かってくる過程をプラトンのひそみに倣って「想起」と呼んでいます。
恐らくこれからの時代、革新的なスタイルの哲学はこれからどんどん出てくるでしょう。「マキオ ロジー」がどれだけそれらに影響力を持てるのか?真価が問われているのであります。
最後にどうしても、これだけは書き添えたいのですが、やはり「マキオロジー」は足利学校=学校 様の有象無象の影響力の下にうまれた思想だということです。功木マキオが生まれ育って哲学的な 思索を重ねた場所が足利であったという事からすれば当然なのですが、もし足利に足利学校が無け れば「マキオロジー」は絶対に誕生することは無かったでしょう。
その意味では「マキオロジー」は足利学校=学校様が生んだ嫡出子であると言えるでしょう。我々 と致しましては、是非この点を強調させて頂きたいところであります。
それでは今回はこの辺で。 See You Next Article!
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