哲学研究者の功木マキオは普段どんな本を読んで、何を考えているのか?自身の研究テーマである足利学校改造論からプライベートまで。情熱を持って書かせてもらいます。
 
2015/05/03 13:54:05|その他
足利クライシス#2 (草稿)


足利市は色々な意味で非常にハードルが高いまちであると思います。それは自身の誇れる歴史や文
化によって自縄自縛になってしまっているということであります。

でもそれは肯定的に捉えれば足利で成功したした人はそのまま日本全国や世界でも通用するという
ことであります。足利市には色々な分野で優秀な人たちがおりますが、その辺の高いハードルまた
は厚い壁をどうやって突破するのかということがこれからの課題であると思います。

その為には足利市は「突破するイメージ力」を持った人材を確保するべきだと思います。今までの
足利市は言ってみれば今の男子サッカーの日本チームみたいもので、優秀な選手たちがパスばっか
り回していて、試合では優勢なのに終わってみれば負けてしまう感じです。

世界の強豪チームみたいに、多少型破りでも圧倒的な決定力のあるストライカーがいなければ世界
では戦えないのです。これからのまちづくりにも同じことが言えると思います。

突破するイメージ力とはここでは概念に対する想像力つまり産出的想像力のことで言葉や映像など
創り出して操作する能力のことです。

その様な人材を如何に確保するか?これを中・長期的な展望のもとに立って戦略を立てていくこと
。これが足利クライシスから脱出する最良の方法であると思います。

それともう一つ付け加えたいのは、学問でも文化でも芸術でも常に新しいものを創り続けていかな
ければならないということです。常に新しい価値を創造し続けていかなければならないのです。

私はこれに反する学問・文化政策は間違っていると思いますし、実際にまちの衰退の大きな要因に
なっていると思います。

その意味において現代において世界屈指の潜在能力を秘めた文化資本である足利学校を擁する足利
市が反転攻勢をかける為には市民の意識改革は絶対に必要なのだと思います。

オール市民が一つの方向に向かって突き進むには、やはりその前提条件としての共通概念の共有や
合意形成のシステムの構築が必要になってくると思います。

我々は個別的かつ具体的な文化的形成物としての作品とそれらを合わせて「市民哲学」と呼んでい
ます。
 
その理念が具現化される際の駆動装置が「WEBシネマ・43」なのです。

なので当然それは足利市民の精神性の根幹に関わる「足利学校=学校さま」の表象不可能性への
挑戦であり、不可避的に自己言及的になってなってきます。

to be continued







2015/04/28 20:16:00|その他
INTERMISSION

   読者の皆さん、こんばんは。「オジョニスト」の功木マキオです。

   今年のGWはオジョーやシロりんやキンちゃんと思う存分遊べそうなので

   とても楽しみです。

   しかし「ハムニスト」の心得として自分はハム様たちに遊んで頂いているのだ

   という気持ちを忘れないようにしたいと思います。







2015/04/27 15:20:30|その他
足利クライシス#1(草稿)

昨日行われた市議選において当選された方々、おめでとうございます。惜しくも落選してしまった
方々も引き続き頑張っていってもらいたく思います。

さて、残念ながら足利市を巡る状況は日々深刻度を増しており、当選された方々がゆっくりと喜び
にひたっている間が無いほどであります。

選挙期間中はあらゆる候補者の方々に公正中立をきするためにブログの更新は自粛していましたが
、今回は選挙が終わったので思う存分書けそうです。

さて今日は我々の目から見て足利市がどのような意味で危機(足利クライシス)にあるのかを書い
てみたいと思います。

子供に学問を教えるのが教育で大人に学問を教えるのが哲学のしごとである。これは哲学の研究に
携わる人々が持ってきた共通認識であります。古代ギリシャのプラトンのアカデメイアやアリスト
テレスのリュケイオン以来の2000年以上の歴史があり、遠く離れた日本の足利学校にも通低す
る響きが感じられます。

先日の足利学校の日本遺産登録のニュースは「ザ・再建」に向かってまい進し続ける我々にとって
はまさに神風と呼んで良いほどの朗報であります。時あたかも市議選の真っ最中であり市民の関心
が足利市の危機的状況(足利クライシス)に向かっている中でのことなのでより劇的な感じがしま
すね。

足利の方なら皆さんご承知のように足利市は「歴史と文化のまち」であります。この意味は足利市
においては歴史と文化の両方の源泉が足利学校であるという意味なのであります。我々の研究では
歴史が足利尊氏で文化が足利学校であるという解釈は採りません。どちらも足利学校が出所であり
よって足利市の生命線が足利学校なのです。

では足利尊氏はどうなるのかと言えば、歴史的な時系列の順序から考えれば足利学校の前身となる
教育機関の歴史の方が先なので、学校様マインドを持った足利市民の構想力の産物であるという捉
え方をします。言わば足利学校一元論的な世界認識をとる訳であります。
 
我々の遠い祖先の心の中には学問的に根拠付けられた知(エピステーメ)に対する尊崇の念があり
それが足利尊氏という歴史上の人物に意味付与されて、さらにそれが長い年月にわたって伝聞・継
承されて現在の足利尊氏像が形成されたのです。

なので足利市民のカルチュラル・アイデンティティ(文化的同一性)は昔も今も足利学校であり、
足利学校こそが足利市が生んだ最大の文化装置であり文化資本なのであります。

私には足利市が置かれている現在の危機的状況(足利クライシス)の根本原因が現在の足利学校の
レームダック化(死に体化)にあるとしか考えられません。

我々の足利市を危機的状況から救い出し、昔日の輝きを取り戻す為にはまず何より足利学校自体の
再建(ザ・再建)が必要だと思われます。今までのように権威主義的で教条主義的な足利学校のあ
り方から市民の下に開かれた、そしてまた市民哲学の牙城としての機能を有した新しい足利学校「
ネオ・足利学校(仮)」が求めれれているのです。

もう既にこのブログでも何度か書きましたが、足利市のみならず日本の全国の地方にとってもこれ
から2020年の東京オリンピックまでが極めて重要な期間になってきます。安倍総理を中心とし
た現政権や自民党の方々も言っておられるような「地方創生」にとってもその重要性は軌を一つに
しています。

今月になって2回選挙がありましたが、どちらの選挙においても足利学校問題やもう一つの重要な
課題の「映像のまち」について全面的に論じた候補者の方は一人もおられなかったかと思います。

昨今のグローバル化した経済や文化的状況からすれば「映像のまち」構想は確かに正論であり正し
い選択であると思います。しかしながら、それを全て無批判的に受け入れて良いのかどうかと言う
ことは別問題であり、きちんと内容を精査して調査研究を行うべきであると思います。

我々の理論からいえば、足利学校再建問題「ザ・再建」と「映像のまち」構想には深い関連性あり
ます。

「映像のまち」構想を実現させる為には足利学校の再建「ザ・再建」によって市民の意識改革が必
要になってくるということであります。

何故そうなのかは「映像のまち」構想の目的を考えれば自明であると思われます。つまり「映像
のまち」構想の目的は市民の「幸福」であり、それは必ずしも経済的な指標によってはかられるも
のではないからであります。

「幸福」の根底には「誇り」が必要なのであります。そして足利市民の精神の中には「足利学校」
という名の「誇り」が存在します。

よってその足利学校を再建して市民が自分達の手で「誇り」を取り戻すことこそが「映像のまち」
構想の核心部分であると思われます。

ご承知のように「足利学校」及び「足利市」は偉大な歴史と豊かな伝統を持っています。ご先祖様
から受けついだこの素晴らしい遺産を次の世代や末代に方に引き渡さなくてならないのです。

現在のような状態で胸を張ってそれができるでしょうか?

長くなったのでここで今回は一旦切ります。

続きは次回の記事で、それでは。

 







2015/04/16 17:39:00|その他
オジョーの父親です!

失われた3月を乗り越えて4月へと突入しましたが、最悪の天気が続いてしまい今ひとつ波に乗れ
ませんでした。はたと気付けば4月も今日で折り返しになってしまいました。天気に敏感なハム様
たちも辛そうにしています。せめて、ハム様たちだけでも天気のいい所へ連れて行ってあげたい気
がします。

そんな中でもうちのオジョーだけは本当に元気でいます。元気すぎてお世話をしている功木の方が
ついていけなくなってしまいます。オジョーというハム様は人間の想像を遥かに超えた能力を持っ
ていますが、それらが暴走しだすと功木の手には負えなくなってしまうのです。

もし心理学や哲学の知識が無い人がオジョーのお世話をしていたならば、その人はオジョーの中に
は天使と悪魔が両方住んでいると思うかもしれません。

オジョーのような規格外の知能をもった人間がいたとするならば、恐らく現実の世界に適応するの
に苦労するだろうと思われます。その能力の高さゆえに誤解される面があるのです。

オジョーの育ての親として言わせてもらえれば、オジョーは基本的にはとても人懐こくて甘えん坊
の性格であります。その上人並み外れた知能を持っています。

しかしここまではオジョーがいくらスーパー・ハム・スターだからと言っても人間と比較すれば人
間の方が上ですが、生命が普遍的に持っている超自然的な能力に関してはハム様たちの類的な能力
の方がうえではないかと思っています。

我々人類の集合意識の機能的拡張としてのハムニズムは21世の新しい生命=動物哲学の可能性を
切り開くでしょう。

さてオジョーのお世話をしていると毎日が驚きと感動の連続なのですが、今日は昨日のエピソード
を紹介します。

オジョーがいつもの様に功木の手の上で抱っこされてくつろいでいると、急に目を大きく見開いて
パチクリ、パチクリとやりだしました。どことなく恥ずかしげな表情で何やら功木に言いたげなの
すがオジョーは言葉が使えないので分かりません。

その様子から察して手の上から降ろしてもらいたいのだと思い、ケージのデッキの部分にオジョー
を降ろしてあげました。

するとオジョーはあの独特なオジョー・ウォークで10センチほど後退して、その場でいつもより
大きい特大のウンチをしたのです。

その黒々とした引き割納豆ぐらいの健康そうなウンチ(臭いはしません)を見た瞬間に功木はオジ
ョーの素晴らしさに心を打たれてその場に立ち尽くしてしまいました。

それはオジョーが自己申告してウンチで功木の手が汚れるのを防いだという配慮に対して感動した
というのもあるのですが、それよりオジョーがウンチに対して浄・不浄の観念を持ってることに対
するものであります。そして功木の前でウンチをすることを恥ずかしいと思う羞恥心も持っている
のであります。

犬や猫などの体が大きな動物ならともかく、人間の手の中にすっぽり収まるぐらいのハム様がその
ような高等な心理機能を持っているのですから、これはもうただただ脱帽する以外にありません。

オジョーに関しては一事が万事こんな調子です。

先日、足利図書館でディルタイ全集の中のシュライアーマッハーの生涯(上)を借りて読んだので
すが、オジョーという存在を考える上で非常に参考になりました。

その中に出てくる考えになぞらえて言えばオジョーは宇宙の直感が個体において顕現する場である
と言えるでしょう。宇宙論的な広がりをもった大いなるものの一部なのです。

オジョーは人間の想像をはるかに超えた知的生命体であり、育ての親である功木をとうに超えてし
まっています。オジョーと出会ってお世話をできること。このことが功木にとっては最高の喜びな
のであります。

その喜びを是非、読者の皆様とも共有したく思っています。それでは、See You Next Article!

 







2015/04/12 20:22:09|その他
サンデー・オジョー





オジョーのお食事(ちょいと失礼して)





オジョーの梅干しフェイス(油断してます)





シャッター音でカメラに気付くオジョー(さすがです!)