哲学研究者の功木マキオは普段どんな本を読んで、何を考えているのか?自身の研究テーマである足利学校改造論からプライベートまで。情熱を持って書かせてもらいます。
 
2016/10/24 0:41:19|その他
今週も頑張りましょう☆★☆







2016/10/23 5:50:37|その他
回し車をまわし始めました☆★☆







2016/10/20 5:23:40|その他
宇チュー人?







2015/09/02 22:13:05|その他
まだまだ日本をあきらめてもらうわけには行きません


皆さん、こんばんは。帰ってきたIDEA_MENこと功木マキオです。久しぶりの更新になりま
す。皆さんは如何お過ごしですか?この夏はフェイス・ブックを重点的にやっていましたが、この
ブログのことは常に頭にありました。やはり「マキオロジー・ザ・バイオロジー」は功木マキオの
原点であると思っています。今後ともよろしくお願いします。

さて、もう既に何度も書いていますが、我々の主張の1丁目1番地はレームダック化した日本最古
の大学である「足利学校」を再建して日本の可能性を世界に示すことにあります。

その目的を達成する為に我々は「哲学」と「映画」の総合をして「ポストシネマ」という新しい
「知」の形式の研究開発を行ってきました。以前に書いた「WEB・シネマ43」と若干違う部分
がありますが、基本的に同じ方向性の研究であります。

幸いに今年の夏は「ポストシネマ」の実証実験を行うことができました。「マキオロジー・ザ・バ
イオロジー」の時にはなかなか出来なかった動画と音楽のコラボが思う存分試せて驚きと興奮に満
ちた夏になりました。

その結果「ポストシネマ」の姿が我々の眼前に完全なる実像として姿を現しました。ドゥルーズの
「シネマ」やハイデガーの「存在と時間」などの詳細なる研究の結果、我々の結論を述べさせても
らえば現代は実質的にもう既に「ポストシネマ」の時代に突入してしまっているのです。

インターネットの登場という人類にとって未曾有の一大変化を遂げた人類にとって、映画の下部構
造としてのデジタル・テクノロジーは既に何十年も先を行ってしまっています。むしろ我々の認識
の方がそのスピードに追いついていけてないのが実情だと思います。

そんな時代なので当然「哲学」と「映画」の融合はこれからどんどん進んでいくと思われます。
我々の研究は先回りして「ポストシネマ」の可能性を追求してまいりましたが、ようやく時代の方
が追いついてきたなあという感慨があります。

さて足利市の「映像のまち」構想についてですが、今述べたように「哲学」と「映画」の融合が世
界の流れだとすると、孔子を盲目的に崇拝している「旧・足利学校」との整合性をどうするかとい
う問題が出てきますね。

我々の主張する足利学校再建プロジェクトである「ザ・再建」においては、新しい足利学校では
当然グローバル化に対応した「哲学」や「映画」なども教えるべきだと主張しています。

一部の方々に誤解があるかもしれませんが、足利学校再建プロジェクト「ザ・再建」はもちろん足
利学校を復活させるのだから足利市のローカルな問題であります。しかしそれと同時に日本全体や
世界の人々にとっての普遍的な側面もあります。

といいますのは、日本人にとって学問や文化の象徴的な場所である「足利学校」を再建することは
「地方創生」や「日本再生」につながる「地方分権の切り札」的な意味合いがありますし、学問に
とって国境はないのですから。

その意味でこれからの東京五輪までの5年間は日本にとっての歴史的かつ文化的な転換点になるで
しょう。

今年2015年はその東京五輪への実質的なカウントダウンが始まった年であり、さらに映画誕生
120年という年であり、ポストシネマの実証実験が行われた「ポストシネマ元年」なのです。

まだ今年は1/3に残っているので振り返るのは少し早いかもしれませんが、個人的には5月にフ
ェイス・ブックを始めたのが最大の事件かなと思っています。それによって自分は日本人であるこ
とを強く意識するようになりました。

ドイツやフランスもいいけどやっぱり日本だよね。という気持ちになってきました。「ポストシネ
マ」の可能性も含めて日本の可能性はまだまだあるよね。と言いたいです。







2015/05/22 19:37:02|その他
コメント#1


こんばんは。功木です。久々のアップになりますが皆さんは如何お過ごしですか?

今日は外国語を学んでいる方で進むべき方向性について悩んでおられる方に向けて書きたいと思い
ます。このブログの過去の記事も合わせて読んでいただくとより理解が深まると思われます。

自分も20代の初めのころは高校時代からの流れで英語をもっとしっかりと身につけて海外へでも
行って働きたいなと思ったことはありました。しかし当時の頃を振り返ると英語そのものよりも
英語を使って書いたり話したり考えたりしている人間の「こころとは何か?」という方へ興味や
関心が移って行った気がします。

何故そうなったのかと言えば、スウェーデン映画の巨匠のイングマル・ベルイマン監督の作品や
デンマークの哲学者のキェルケゴールの実存哲学に影響されたせいなのかもしれません。

それらを入り口として古代ギリシャ以来2500年以上の歴史を持つとされている
「philosophy」の歴史にコミットして学究の徒になったのです。この自分の経験をもと
に言わせもらえれば、外国語を考える場合にはそれをどう捉えるかということが重要になってくる
と思います。

ある種の人にとって外国語を学ぶことは非常に快楽を伴うものなのだと思います。それはどのよう
な快楽かと言えば知識の増加とそれによる自己イメージの変容からくるものと、認識の相対化によ
るものがあると思われます。

もし前者の方を優先させたいならば、外国語を客体として捉えて外国語を外国語として学べばよい
のだと思います。才能のある方ならば何ヵ国語もマスターして国際人として活躍できるでしょう。

しかし、もし後者の快楽、換言すれば「真理における知的欲求に対する満足」を求めるならば、外
国語を客体として捉えてはダメなのです。

その為には、端的に言って「言語をこころの機能」として捉えて、外国語をマスターすることを「
こころの機能の拡張」として捉えなければならないのです。

この考え方は何も功木が考え出したものではなくて、古代ギリシャのアリストテレス以来哲学的な
言語観として主流を占めています。

そもそも古代ギリシャにおいては人間を「ロゴス(言葉)」を持った動物として定義していました
。それ程人間のこころと言葉との関係性を密接であると考えていた訳です。

爾来、哲学の歴史において人間のこころと言語との関係を考えることが、哲学の最重要テーマとな
っているのです。

外国語に関してはこんなところですが、もう一つ人間関係の複雑さということに関しても哲学とい
う学問は有益であると思います。

功木は先に上げたようにベルイマン監督の作品に傾倒していたのですが、それは技術的なことも興
味があったのですが、それと同じくらいにそこに描かれている人間のこころの不思議さに惹かれた
のだと思います。

それは端的に言って「如何に愛と憎しみが人間にとって普遍的であるか」ということが描かれてい
たからなのです。

しかし映画には映像としての限界があり、愛と憎しみの形成原理まで探求しようとするならば、や
はりフロイトやラカン、メラニー・クラインなどの精神分析の詳細な研究とそれらのバック・ボー
ンとなっている「哲学」に関する十全なる理解が必要になってきます。

何故こんなことを書くのかといえば、人間関係に悩むということは実は自分自身のこころについて
分かっていないということからくる不安の裏返しであるからです。実際、功木は哲学を学び始めて
から人間関係には悩まなくなりました。

以上、今日のところはこんなところですが如何でしたか?お役に立ちましたか?また近いうちに続
きの記事を書きます。それでは、また。


 







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